5世紀?初期教会の十字架とギリシャ語詩篇86碑文発見 2023.10.2

ヒルカニア要塞から初期クリスチャン関連の考古学発見

エルサレムから東南へ約17キロ、ユダの荒野(西岸地区)に位置する、ヒルカニア要塞の遺跡から、詩篇86篇に関連するとみられる古代ギリシャ語の文字が彫られた石が発見された。

発見された石に彫られているのは、赤い十字架とその下に、「イエス・キリスト、私を守ってください。私は悩み、助けを必要としています。私の命を守ってください。あなたに誠意を尽くしますから。」というギリシャ語の文字であった。

これは、ダビデ王の祈りとして知られる、詩篇86篇の最初の部分「主よ。あなたの耳を傾けてください。私に答えてください。」に関連するとみられている。

スクリーンショット

以下にこの要塞の略歴を記載しているが、この要塞は、ハスモン王朝が建て、その後ヘロデ大王が再建したが、ヘロデが死亡した4BC以降は、放置された状態であった。

しかし、500年近く放置されたあと、492年に、キリスト教の修道院が建てられ、「カステリオン(ギリシャ語で小さな城)」と呼ばれるようになった。

今回の発掘はその時代からとみられている。書かれた分の文法が若干間違っていることから、ネイティブなギリシャ人ではなく、セム語を話していた人(ひょっとしてユダヤ人?)ではないかと言われている。

発見したのは、長年、ヒルカニア要塞の発掘に関わってきたヘブライ大学考古学者のオレン・グトフィールド博士と、マイケル・ハーバー博士のチームで、アメリカのカーソン・ニューマン大学と、アメリカ考古学関連の組織の協力と協力と支援の中での発掘である。

今年から本格的に始まった発掘

ヒルカニア要塞は、ユダの荒野に位置しており、エルサレムから車で1時間、さらにそこから半時間は登る丘の上(200メートル)にある。長年ヨルダンの支配下にあり、その後は、パレスチナ自治政府管理下C地区にあり、軍事的なエリアでもあったことから、これまで、ほとんど発掘ができていなかった。

しかし、今年初めに調査が行われ、6月から、この酷暑の中、発掘が行われていた。ハスモン朝時代、第二神殿時代、ビザンチン時代、イスラム帝国時代までの重要な遺跡があると期待されている。

これまでに上記、ビザンチン時代の教会と、アラビア語が刻まれた指輪(イスラム帝国時代)が発見されている他、インディ・ジョーンズのような、謎のトンネルが2本が発見されている。

www.timesofisrael.com/unique-byzantine-psalm-inscription-in-new-testament-greek-discovered-in-judean-desert/

*ハスモン王朝のヒルカニア要塞:イエス時代直前の超どろどろユダヤ一族紛争(Wikipediaとガイド学校の学び思い出しより)

ヒルカニア要塞は、紀元前2世紀、この地域を支配していたハスモン王朝の要塞の一つである。

ハスモン朝は、167BC、ユダヤ人のマカビー一族が、セレウコス朝シリアを倒して(ハヌカ)、イスラエル地域での権威を取り戻した時に立ち上げた、ユダヤ人の王朝である。しかし、それからイエスが登場する1世紀までの間、非常のどろどろした一族間の紛争が続いたのであった。参考までに、以下はその経過である。

マカビー一族は、大祭司として神殿を回復し、ローマ帝国も最初はこの権威を認めることとなった。指導者、大祭司となった先の3人が殺されるなどして4人目に立ったシモンも殺されると、その3男のヒルカノス1世が立つことになった。このころ、エルサレムでは、神殿を支配するサドカイ派と、これに反発するパリサイ派が対立するようになる。ヒルカノスは、サドカイ派を支持した。

ヒルカノス1世の後は、その息子アリストブルス1世が、母と兄弟たちを牢に入れることで、王位を継ぎ、大祭司、ならびに王としての地位を確率した。しかし、間も無く死亡。その後は、その弟、アレクサンドロス・ヤナイオスが、亡きアリストブルス1世の未亡人サロメ・アレクサンドラに牢から引き上げてもらい、彼女と結婚することで、王位を継いだのであった。(103BC―76BC)

ヤンナイオスの死後は、サロメ・アレクサンドラが約10年治めたが、その後は、長男のヒルカノス2世を押し退けて、次男のアリストブルス2世が、ハスモン王朝の王となった。ところが、また弟のアリストブルス2世が現れて、王位を奪ったのであった。

このころ、いよいよローマ帝国のポンペイウスが、強大な軍を率いてやってくる。ポンペイウスは、ヒルカノス2世の方が無能で傀儡しやすいと判断。アリストブルス2世をローマへ連行し、ヒルカノス2世を王に戻した。

ところがその後、またアリストブルス2世の子供であるアンティゴノスが出てきて、ヒルカノス2世を殺して自分が大祭司となる。

ここでいよいよ登場するのが、ヘロデ大王である。ヘロデは、ローマの皇帝カイザルにも信頼を置かれていた武将のアンティパトロスの息子であった。ヘロデは、ヒルカノス2世を支持してアンティゴノスに敵対して危なくなり、ローマへいったん退いたが、そこで、王の権威を得ることになった。

ヘロデは王となり、37BC、有名なローマ帝国のマーク・アンソニーとともに舞い戻って、ハスモン王朝を滅ぼし、ヘロデ大王になった。

今回、話題になっているヒルカニア要塞は、ヤンナイウスの時代に建てられ、その父、ヒルカノス1世にちなんで名付けられた要塞である。ハスモン王朝は、ユダの荒野に複数の要塞を作っていたが、ヘロデ大王がそれらをさらに兄弟な要塞にしたものもある。世界遺産として有名なマサダもその一つ。

ヒルカニア要塞は、ヘロデが、後に自分の地位を危ぶむとして迫害した人々(自分の息子も含む)を殺した場所としても知られている。

これらの要塞は、その後、ビザンチン時代(東ローマ帝国)に、キリスト教が確立されていく中で、教会が住むようになるが、その後7世紀にやってくるイスラム帝国にも支配されることになる。しかし、厳しい荒野に位置しているため、あまり使われることなく、9世紀以降はそのまま遺跡となって放置された形になっていった。

この歴史からも、ヒルカニア要塞からは、ハスモン王朝時代から第二神殿時代の重要な遺跡の他、5世紀以降のキリスト教会の遺跡も発見されている。

石堂ゆみ

ジャーナリスト、元イスラエル政府公認記者、イスラエル政府公認ガイド、日本人初のヤド・ヴァシェム公式日本語ガイドとして活動しています。イスラエルと関わって30年。イスラエルのニュースを追いかけて20年。学校・企業・教会などで講演活動もしています。