エルサレムで杉原千畝を覚える式典2つ:サバイバーとその家族など100人以上出席 2021.10.14

写真:Times of Israel

11日と13日、エルサレムでは、ヤド・ヴァシェムに義なる異邦人と認められた日本人外交官、杉原千畝氏の名前がついた道路標識と、杉原パークの2つを公開する式典が行われた。2箇所はそれぞれ違う団体によるものである。

*杉原千畝

杉原千畝外交官は、1939年、ナチスドイツがポーランド侵攻を開始する直前にリトアニアに領事代理として赴任。ナチスの侵攻を受けて、ポーランドからリトアニアへ逃れてきたユダヤ人たちと時同じくしてリトアニアにいることとなった。

ポーランドからリトアニアへ脱出してきたユダヤ人たちは、まず、オランダのツバルデンディク氏が、オランダ領キュラソー(カリブ海の島)への仮のビザを発行してもらう。しかし、それだけでは出国できないので、続いて、日本への通過ビザもらい、旧ソ連経由でナチス支配下のヨーロッパから脱出しようとした。

しかし、当時の日本はナチスと同盟でもあり、外務省は千畝に通過ビザの発行を許可しなかった。しかし、千畝は、人道の視点から約2000人以上に通過ビザを発行。その家族も含めたため6000人のいのちのビザを発行したとされる。このビザを使い、旧ソ連のシベリア鉄道を使ってウラジオストックへ、敦賀、そして神戸にたとりつき、数ヶ月後に、第三国、最終的にはイスラエルにたどり着いたのであった。

日本を経由して生き延びたユダヤ人の中には、ミール・イシバ(ユダヤ教神学校)の学生がいた。彼らは、戦後、ニューヨーク、そしてエルサレムにイシバを立ち上げた。現在、ミール・イシバは、世界一大きなイシバとして、知られている。

サバイバーの子孫たちは、杉原千畝がいなかったら、自分たちは存在していないとして、今でも杉原千畝やその道中で助けてくれた日本人への非常な感謝を表明している。

1)杉原スクエア(エルサレム市)

11日、エルサレム市は、杉原千畝の名をつけた道路標識を、キリアット・ヨーベル地区に立ち上げ、その記念イベントを行った。イベントには、杉原千畝が発行した日本の通過ビザで、生き残ったサバイバーや、その家族、約100人が出席した。また杉原千畝氏の杉原息子伸生氏(72)が出席した。

このイベントの主催はエルサレム市であることから、モシェ・リオン市長、在イスラエル日本大使館から水島光一大使がそれぞれ挨拶。また杉原千畝氏の息子の杉原伸生氏も挨拶した。

サバイバーからは、バール・ショーさん(93)とサバイバーの父を持つアブラム・シメリングさんが挨拶した。バールさんは、「杉原さんは、一番必要な時に一番良いところにいた。そして彼はよい人だった。」と締めくくった。シメリングさんも、杉原さんがいなかったらその後につながる家族80人は存在しなかったと感謝を述べた。

www.timesofisrael.com/jerusalem-dedicates-square-to-japanese-diplomat-who-saved-thousands-of-jews/

2)杉原パーク(KKL・JNF)

続いて13日には、エルサレムの山中、動物園に近い場所に、杉原パークが建設予定となったことから、その礎石が据えられるイベントが行われた。ここでも杉原伸生氏が挨拶したほか、リトアニア副大使、ミール・イシバ学長のラビ・イツハク・エズラヒが挨拶した。

<ちょっと複雑な裏事情>

この2つのイベントをめぐっては、いろいろな課題も報じられていた。まず、コロナ禍で、杉原伸生氏のビザが、ギリギリまでおりないというトラブルがあった。原因は、伸生氏が、入国に際して提出すべきコロナ関連の書類が不足していたからである。

不足していたのは、空港でコロナ陽性になった場合に、隔離する場所の情報と、健康保険の提示であった。伸生氏は、自分はエルサレムに家族がいるわけではない。それは招いたエルサレム市の責任であると主張したという。イスラエル国内では、ユダヤ人にビザを出して救った人の家族にビザを出さないのかと、論議になっていた。しかし、エルサレム市の責任だと主張したことに、反発もあったようである。

最終的には、以前に、イスラエル政府関係者として初めて、敦賀ムゼウムを訪問したシャキード内務相が、調整して、ようやく杉原伸生氏が入国できるようになった。

www.timesofisrael.com/interior-minister-shaked-sugihara-a-hero-to-jews-i-intervened-after-toi-story/

またなぜ2つ別々のイベントになったのかについて。一つは、エルサレム市によるもので、もう一つはKKL・JNFという国立公園を管理する組織によるものであった。いずれもイスラエル政府に関係してはいるが、別組織である。

1986年、杉原千畝氏が、義なる異邦人としてヤド・ヴァシェムの認定をうけたことを受けて、その翌年、千畝氏を覚える記念碑が、ベイトシェメシュに据えられた。しかし、その後、日本人観光客が行くと、その場所はすでに住宅地になってしまっており、記念碑がないと杉原ファミリーに報告していたという。

2019年に、杉原ファミリーがこれに苦情を出したところ、管理者であったKKLはこれを深く謝罪し、新たな場所を提供すると約束した。それが、今回の杉原パークになったのである。

これで、杉原千畝氏を記念する場所はイスラエルに3箇所となった。

www.timesofisrael.com/israels-memorial-forest-to-japanese-schindler-razed-to-build-apartments/

石堂ゆみ

ジャーナリスト、元イスラエル政府公認記者、イスラエル政府公認ガイド、日本人初のヤド・ヴァシェム公式日本語ガイドとして活動しています。イスラエルと関わって30年。イスラエルのニュースを追いかけて20年。学校・企業・教会などで講演活動もしています。