エチオピア系ユダヤ人はユダヤ人か?:90年代のエキソダスまでの劇的な歴史 2023.8.11

クシュ地域で流浪と迫害:ベータ・イスラエル:4世紀から始まった苦難の歴史

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エチオピアは、聖書にクシュと記され、紀元前1900年ぐらいから、紀元後4世紀ぐらいまで、その名前で呼ばれていた北アフリカ地方の王国である。

そのエチオピアに、ユダヤ人の王国ベータ・イスラエルがいたと記録されているのは4世紀である。以来、ベータ・イスラエルが滅ぼされたり、繁栄したりしながら存在していたことは、マルコポーロなど、様々な文書にその記録が残されている。しかし、このユダヤ人の王国は、1329年のエチオピア王国の時代に、いったん滅ぼされることとなった。

以後、ユダヤ人たちは、流浪の民(ファラシャ)と呼ばれるようになった。その後小さいユダヤ人王国が復活していたが、1600年代、エチオピアが、カトリックに改宗したとされる王に征服されると、ユダヤ人への激しい迫害が始まった。この間に、エチオピアのユダヤ人の間から、ユダヤ教的要素がかなり消えたとみられている。

しかし、ユダヤ人はこの時代も、100万人はいたとされ、様々な技術を使いながらエチオピア社会の中でサバイバルしていたという。ヘブライ語も維持しながら、少なからず、「ユダヤ人」の生活も続けられていた。

これを裏付けるように、16世紀には、エジプトのラビが、エチオピアのユダヤ人は、失われた十部族「ダン」の末裔であると認める記録を残している。しかし、多くはカライ派(モーセ5書だけで、タルムードは認めない)とよばれる宗派であったため、主流派のラビ的ユダヤ教への改宗は求められたとのこと。

1860年代から中東にイギリスなど欧米勢力が入ってくるようになると、プロテスタント系の宣教師たちが、ユダヤ人への福音伝道を目指して、中東各地に乗り込んでくる。エチオピアでは、ヘンリー・アーロン・スターンという、ユダヤ人改宗者(メシアニックジュー)が来て、宣教を行い、ベータ・イスラエルからも2000人がキリスト教に改宗した。ただし、エチオピア政府の制限により、プロテスタント的信仰ではなく、エチオピア正教への改宗であった。この人々が、今でいう、「ファラシャ・ムーア」である。

主席ラビたちよりユダヤ人と承認・イスラエルも移住を承認

その20年後の1988年から、ひどい飢饉と伝染病が蔓延し、エチオピア人の3分の1、ベータ・イスラエルの3分の2が死亡した。しかし、その後、1900年代初頭、富豪ロスチャイルドの支援を受けて、ファイトリビッツ博士という人物が、ベータ・イスラエルに関する国際的な委員会を設置。1908年には、45カ国の首席ラビが、その時にも生き残っているエチオピアのユダヤ人は、ユダヤ人であると認める宣言を出した。

時同じくして、1921年、当時はまだイギリスの委任統治化にあった、パレスチナ地方で、首席ラビをしていたラビ・クック(シオニズムの父の一人)もエチオピア系ユダヤ人はユダヤ人であると宣言した。

その後、パレスチナ地方ではユダヤ人の移住が始まり、1948年にイスラエルが独立すると、中東各地からもユダヤ人がイスラエルへ移住した。しかし、エチオピア政府は、ベータ・イスラエルのイスラエルへの移住を禁止したのであった。このため、エチオピアからは違法に移住する人々がで始めた。

すると、イスラエル国内では、エチオピア系ユダヤ人を、ユダヤ人として移住を認めるかどうかは論議となった。それまで、ユダヤ人といえば、白人という一般的概念があったことと、特に、ベータ・イスラエルの中のファラシャ・ムーシャは、歴史上、国を上げてキリスト教に改宗した経過を持つ民族であったことも問題とされた。

ラビ・オバディア・ヨセフ wiki

最終的に、イスラエル政府の移住省は、エチオピアのユダヤ人は外国人であり、移住を許可すべきではないとの方針を打ち出した。ところが、その直後の1973年、ユダヤ教超正統派のスファラディ系主席ラビであったラビ・オバディア・ヨセフが、ベータ・イスラエルは、ユダヤ人であるとの声明を出すことになる。

さらに、1920年代のシオニズムの父とも目されるラビ・クックも同じ意思も同じ立場であったとして、アシュケナジー系主席ラビも正式に合意したため、
エチオピアのユダヤ人にも帰還法が適応となり、移住支援を行うことになったのであった。(メナヘム・べギン首相当時)

3回の大規模移住作戦(モーセ作戦・ヨシュア作戦・ソロモン作戦

エチオピアで、大きな移住作戦が行われたのは、1974年から始まり、1991年まで20年近く続いた内戦の時であった。

内戦は、奇しくも、イスラエルの首席ラビが、エチオピアのユダヤ人をユダヤ人と正式に認め、イスラエル政府においても彼らの移住を支援することが決まった翌年に内戦が始まった。

終焉は、1991年6月4日に反政府勢力が勝って、エチオピア暫定政府(ティグレ人民解放戦線主導)が立ち上がることで、一応の終りを迎えることになる。この20年近い内戦で、少なくとも140万人が死亡したが、このうち100万人は餓死であったと言われている。

この内戦の時に、エチオピアで、“ベータ・イスラエル”と呼ばれていたユダヤ人のイスラエルへの大規模な救出・帰還が実現するのである。

実際の救出作戦が行われたのは、内戦のが終わる直前ではあったが、主要な3回の救出作戦を中心に、4万人近いユダヤ人が移住を完了するという、歴史に残る大規模な作戦となった。

1)モーセ作戦(1984年11月21日から1985年1月5日:8000〜1万人)

モーセ作戦

内戦が長期化するエチオピアからスーダンに逃れていたユダヤ人を、ヨーロッパ系航空機を使い、ブリュッセル経由でイスラエルへと移送した作戦。

一回200人から500人程度での便を30回往復させ、およそ8000人がイスラエルに到着した。アメリカが企画し、イスラエル軍、アメリカ大使館、スーダン治安部隊などが協力して行われた。

しかし、作戦に参加する以前に、エチオピアからスーダンにまでは徒歩で辿り着くしかなく、途中で4000人が死亡したとみられている。さらに、飛行機でイスラエルに移動する最中にも死亡した人も多かったという。

また作戦の後半になると、アラブ諸国がスーダンにこれを停止するよう圧力をかけるなどしたため、イスラエルは、1月5日に、強制的にこれを終わらせることとなった。このため、多くの家族が離れ離れになった。

2)ヨシュア作戦(1985年3月・500人)

モーセ作戦で、脱出できなかった人々のうち、500人を脱出させた作戦。アメリカのレーガン当時大統領の承認の元、ジョージ・ブッシュ当時副大統領の手配で、アメリカ空軍機によって実現した。

この作戦を描いた映画:The Dead Sea Diving Resort

3)ソロモン作戦(1991年5月24日(金)から25日(土)までの25時間・1万4325人)

ソロモン作戦 イスラエル防衛省

長年の内戦で、1980年代後半のエチオピア政府はいよいよ崩壊の様相にあった。このため、エチオピア政府は、イスラエルと、アメリカに武器を供与してもらうことを条件に、ユダヤ人の脱出を容認する。

この時点でまだエチオピアにいたユダヤ人は、ゴンダール地方という地域にいた。1989年、アメリカ・エチオピアユダヤ人協会は、ソロモン作戦が実施されることを見越して、ゴンダール地方から、首都で空港があるアディスアベバへの移動を計画する。

バスやトラックもあったが、馬や徒歩で、何百キロも徒歩できた人は2000人いたという。途中で殺された人もいた。より多くの人が乗れるよう、飛行機は座席をとりはずし、最大1086人が一度に飛行機に乗った。

作戦は、1991年5月24日(金)午前10時から25日(土)午前11時までの25時間で、イスラエル軍用機とエルアル民間機含む計35機、41回の往復で、1万4325人をイスラエルへ移住させたのであった。この移動中に生まれた子供が8人いた。安息日での作戦であるが、命を守る作戦だとして、ユダヤ教はこれを許可したのだった。

ボーイング747の座席を全部取り払って、1087人を乗せたことは、ギネスブックにも乗せられている。*以下の記録19分ぐらいからが、飛行機での移動の様子

石のひとりごと

結構時間はかかったが、改めて、エチオピア系ユダヤ人も、ヨーロッパのユダヤ人と同じような苦難の歴史を歩んできていたことを学ばせてもらった。ユダヤ人というだけで、やはりこの世界は、すんなりと受け入れないということである。

それにしても、3つの作戦の時点で、イスラエルは、まだ建国43年である。この当時、エチオピアではHIVはじめ、様々な伝染病蔓延しており、ベータ・イスラエルの人々をこれほど受け入れることで、イスラエルに感染をもたらす恐れもあった。幸い、感染症が拡大することはなかったが。

この当時、筆者は、エルサレムの病院で働いており、病院スタッフからの話を時々聞いていた。エチオピアから来た人は、トイレの使い方を知らないので、飛行機の中では、どこでもトイレ状態だったとか。イスラエルへ入国した後は、エルサレムのホテルの中にも彼らを受け入れたホテルもあった。無論、シャワーの使い方から教えなければならなかったと言っていた。

それでも、ユダヤ人である以上は助けるという、さらには、実際にはそのユダヤ人かどうかも疑問も残る中で、これほどのことを実行する、そんな国がいったいどこに、どの時代にあっただろうか。イスラエルという国は本当に、私たちが想像するよりはるかに大きい。それは実に、その背後におられる彼らの神、主が大きいということを確信せざるをえない。

この時のことと思われる聖書のことばがある。

恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ。私は東から、あなたの子孫を来させ、西からあなたを集める。わたしは北に向かって、「引き渡せ」と言い、南に向かって「引き止めるな」と言う。(イザヤ書43:5)

北という表現があるが、同じ頃、イスラエルからは北にあたる旧ソ連からユダヤ人が大挙して、イスラエルに移住した。当時、ペレストロイカの流れの中で、旧ソ連からロシアへの転換期で、チェルノブイリ原発事故などが発生したことである。

これに対し、エチオピア系は南から、しかも引き止めようとしたエチオピア政府を振り切って、軍事作戦に近い形で、移住を実現したのであった。

またその実現に、レーガン大統領や、ブッシュ父大統領がかなり関わっていたことも驚きだった。アメリカという異邦人(キリスト教の国)が、エチオピア系のユダヤ人の移住の鍵を握っていたのである。聖書には次のように書かれている。

見よ。わたしは国々に向かって手を上げ、わたしの旗を国々に向かって揚げる。彼らは、あなたの息子たちをふところに抱いて来、あなたの娘たちは肩に負われて来る。(聖書イザヤ書49:22)

宗教という視点だけで、聖書を見ている、ほとんどの日本人たちは、何を見落としているのか、わかってないとしかいいようがない。早く気づいてほしいと思う。

石堂ゆみ

ジャーナリスト、元イスラエル政府公認記者、イスラエル政府公認ガイド、日本人初のヤド・ヴァシェム公式日本語ガイドとして活動しています。イスラエルと関わって30年。イスラエルのニュースを追いかけて20年。学校・企業・教会などで講演活動もしています。