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終戦から75年目のホロコースト記念日:エルサレム
エルサレムでは、7日日没後に、ヤド・ヴァシェムでホロコースト記念式典が行われた。昨年は新型コロナの感染拡大期であったので、オンラインで行われたが、今年は、ワクチン政策が功を奏し、感染者数は一日300人以下にまで下がっていることから、人数制限の元、例年のようにヤド・ヴァシェムでの式典が行われた。
式典の翌日は、全国でサイレントともに、2分間、人も車も立ち止まっての黙祷が捧げられた。ヤド・ヴァシェムでは、リブリン大統領とネタニヤフ首相が、献花式を行う他、記憶のホールでは、犠牲者の名前を、生き残った人々が1日中、読み上げる行事が行われた。
現在のホロコースト・サバイバーたち
2021年、中央統計局によると、今もイスラエルに生存するサバイバーは、17万9600人。(昨年新たにサバイバーと認められた3000人を含む)このうち17%は90歳以上で、100歳以上の人は約850人。
昨年中に死亡したサバイバーは、1万7000人で、このうち900人は、新型コロナが原因で亡くなっていた。記念式典において、リブリン大統領は、この人々が、ナチスの迫害は免れたが、ウイルスには勝てなかったと追悼を表明していた。
現在も生存するサバイバーは、64%がヨーロッパ、旧ソ連から、11%がイラクから、16%はモロッコ、4%はチュニジア、2%がアルジェリアとリビアとなっている。
ホロコーストといえば、ヨーロッパが中心ではあるが、ナチスドイツは中東や、北アフリカにまで進出したので、その地域に住んでいたユダヤ人も抹殺の対象としたのである。ホロコーストを生き延びたユダヤ人たちは、イスラエルが1948年に建国すると、その40%が、1951年までに移住。その後、1990年に、旧ソ連にいたサバイバーの30%はイスラエルに移住したと見られている。女性は男性より長生きする傾向があるが、今も生存しているサバイバーも、60%は、女性とのことである。
点火に臨んだ6人のサバイバーたち
7日夜にヤド・ヴァシェムでの記念式典では、600万人を記念して6つの炎に、6人のサバイバーとその子孫がともに、証言ビデオ後に、一つづつ点火していくことになっている。今回の6人の証から3人紹介する。どの人も今は、多くの息子娘、孫、ひ孫と多くの家族に囲まれている。これこそがホロコーストに対する勝利なのである。
1)シュムエル・ナアルさん(96):ギリシャのテサロニケ出身
テサロニケをナチスが占領したのは1941年。シュムエルさんは、当時17歳。父親がナチスに殴られてのちに死亡した。テサロニケでは、1942年にブラックシャバスという事件が発生する。ナチスは、真夏のカンカン照りの広場にユダヤ人を1日中立たせて、熱中症だろうか、多くが死んでいくのを目撃。その後、列車に乗せられて8日後、アウシュビッツに到着する。この時、母親と離れ離れになり、その後、11人だった家族は全員殺されることとなった。シュムエルさんは、アウシュビッツ入所にあたり、体毛を全て剃り落とされた。この時、自分というものが全て無くなったと語っている。
戦後、ホロコーストをたった一人で生き延びたシュムエルさんは、イスラエルに来て、独立戦争からヨムキプール戦争までを戦った。ミリアムさんと結婚して、今は3人の子供と10人の孫、11人のひ孫に囲まれている。
www.yadvashem.org/remembrance/archive/torchlighters/naar.html
2)ヨシ・ヘンさん(85)ポーランド(現在のベラルーシ)のカチワ出身
1942年7月、ナチスが、カチワを占領した時、ヨシさんは6歳。この翌年の過越の日、ヨシさんとその家族はゲットーへ移動させられた。そこで祖母を含む多くのユダヤ人が餓死、または疫病で死亡した。やがて、大量虐殺の事実がわかってくると、ゲットーでユダヤ人たちが立ち上がる。その混乱の中、ゲットーにいたユダヤ人はヨシさんも含め、一斉に森に逃げたのであった。この時、ヨシさんの母親と下の弟を含む多くのユダヤ人は捕まって殺されたのであった。その後、6歳のヨシさんは、父王後もはぐれ、暗闇の泥沼を一人で彷徨ったという。1時間後、ヨシさんは叔父のハルシュさん、やがて父のドーブさんも合流して、泥沼の中、パルチザンのところへ行こうと、3人で逃亡を続けた。しかし、ある時、銃声とともにハルシュさんの手が、ヨシさんの手から離れていった。叔父を殺したのはポーランド人であった。
ヨシさん(6)と父のドーブさんは、ようやくパルチザンのところにたどり着く。しかし、1943年にはナチスがまたユダヤ人さがしにやってきた。ヨシさんた地は、9つももなく裸足で逃げた。1944年、親子は旧ソ連の赤軍に救出され、DP(Displaced person難民)キャンプへと送られた。1947年、有名なエキソダス号でイスラエルへと出発したが、イギリス政府に止められ、ドイツへ送られている。ヨシさん親子がイスラエルへ移住できたのは、1948年8月。ヨシさんは、その後、諜報機関モサドで、ナチス残党の追跡も行ったという。ネハマさんと、3人の娘、9人の孫に恵まれた。
www.yadvashem.org/remembrance/archive/torchlighters/chen.html
3)ハリーナ・フリードマンさん(88)ポーランドのロッジ出身
ハリーナさんの母親は、ナチスが攻めてくると、所持金をドレスに縫い込んで、ワルシャワへと避難した。しかしゲットーが市内に設立されるとそこへ閉じ込められることになる。ハリーナさんは、当時のワルシャワゲットーでは、アパートの窓からでも、空腹な人、普通に路上で死んでいる遺体や、それを運んでいく台車などのを見ていたと証言する。まだ6歳と小さかったハリーナさんは、両親が働いている間、幼稚園に入れられたが、1942年の夏に、ナチスがユダヤ人の移送を開始すると、子供たちを外へ連れ出して一斉射撃したという。ハリーナさんも多くの子供たちの遺体の間で倒れていたが、傷はなく、恐怖の中で夜になってから起き上がったという。それ以後、両親は、ハリーナさんを幼稚園へ行かせず、家の隠れ家に隠したという。
1943年の過越のセデルの翌日、ワルシャワゲットーはナチスに対して蜂起する。燃え盛るゲットーから家族は逃げるが、母親は捕まってアウシュビッツへ送られ、殺された。移送される時、母のアンナさんは、「私の娘よ。私の娘よ。無事でいて」と叫んでいたという。この後、ハリーナさんと家族は、1年半にわたって、」ジェルジー・コズミンスカさん家族の壕に保護され、生き延びることができた。ジェルジーさんとその養母、テレーサ・コズミンスカさんは、1965年、義なる異邦人として覚えられている。
ハリーナさんは、同じくサバイバーのアブラハムさんと結婚。三人の子供を得て、七人の孫、五人のひ孫に囲まれている。
www.yadvashem.org/remembrance/archive/torchlighters/halina-friedman.html
失われていくホロコーストをどう伝えていくかは、イスラエルでも課題である。対策の一つとして、「ジカロン・バ・サロン(リビングでの追悼)」と呼ばれるプログラムが行われている。これは、普通の家のリビングに、家族友人を招いて、サバイバーの証言を共に聴くというものである。あと数年もすれば、こうした生きた証言はきけなくなるだろう。
www.facebook.com/ZikaronBaSalonEN/posts/2854562668140288
この他、各家庭でサバイバーを覚えてろうそくを灯す運動も続けられている。
大きなところでは、マーチ・オブ・ザ・リビングというユダヤ人組織が、毎年、アウシュビッツとビルケナウを歩くというイベントを行っている。リブリン大統領含め、全世界からの参加者があるが、昨年につづき、今年も、オンラインでの開催となった。今年は特にコロナ・パンデミックでもあり、ホロコースト時代のナチス時代の医療従事者に焦点が当てられていた。
ドイツ政府が、コロナで苦しむサバイバーに5億ユーロ以上を計上
式典で点火を行った3人のサバイバーのように、大家族に恵まれている人もいるが、そうでない人も多い。たった一人で高齢となり、ホームに住んでいたり、市中で一人暮らしのサバイバーも少なくない。統計によると、イスラエルに在住するサバイバーの50%は、何らかの食料配給を受けていることがわかった。
www.timesofisrael.com/over-half-of-israels-holocaust-survivors-require-food-handouts-survey/
こうした中、ドイツは、戦後から今も継続してユダヤ人やイスラエルへの補償を継続している。コロナ禍の今、ドイツ政府は、世界にすむ24万人のユダヤ人サバイバーたちを支えるために、5億ドル以上(650億円)を提供すると発表した。支援先は、まずイスラエル、北アメリカ、旧ソ連圏、西ヨーロッパとなっている。
予定では、最も貧しいと見られるサバイバー1人あたり、コロナ支援金として、1200ユーロ(約15万6000円)を今後2年の間に2回受給される。これに加えて、国内のサバイバーに対する社会保障を3005万ユーロから、5億5000万ユーロにまで引き上げることに合意した。これを含め、ドイツがホロコースト関連の補償として拠出した額は、800億ドル(約9兆円)にのぼるという。
こうしたドイツ政府の姿勢は、少なくともイスラエルでは、「ドイツの悔い改めは、信頼できるのでは」と考える人が少なくないようである。
www.timesofisrael.com/germany-agrees-to-pay-662-million-in-coronavirus-aid-to-holocaust-survivors/
石のひとりごと
ホロコーストについては、調べれば調べるほどに、その規模の大きさ、その恐ろしいほどの残虐性に底知れぬ恐ろしさを感じる。当時のドイツ人たちは、善良な一市民として、全く罪意識なく、忠実な思いで、ユダヤ人への暴力を行っていたのであった。
決してヒトラーに命令されたわけでもなく、いわゆる忖度に近い状態で、自ら進んで、忠実に暴力を実行したのである。これは当時、ドイツ人に限ったことではなく、ポーランド人や、ウクライナ人など様々な地域の善良な人々の中にも見られたことである。
研究によると、ファシズムのシステムにおいては、人々が世間が素晴らしいと歌い上げる権力者に従うことで、集団の一員であることに快感を覚える他、その中での責任からの自由(命令した人の責任であって自分ではないという責任逃れ)という一種の快楽が働き、とんでもない、考えも及ばないような残虐な行為も平気で実行してしまうのだという。これがファシズムの恐ろしいところである。
一方で、その巨大な社会の波に逆らい、ユダヤ人を助けた人もまた数えきれないほどいたことも忘れてはならない。社会の波に流されないでいるということもまた可能であり、そのような行動をとった、いわゆる義なる異邦人のことも、パワフルな見本として、次世代に引き継いでいくべきであろう。
ホロコーストは決して過去のことだけではない。今、世界の民主主義が機能しなくなりはじめている中、再びファシズムの世界に向かっているとの懸念が出始めている。ホロコーストは、これから未来の世界のためにも、しっかりと学び引き継ぎ、人類の致命的な弱点として、また逆に正しい生き方をすることも可能であるということも合わせて、自覚していかなければならないだろう。