ヨム・キプール:国をあげての悔い改め 2019.10.9

エルサレムでは、8日午後5時40分(日本時間午後11時40分)からヨム・キプール(大贖罪日)が始まる。終了は10日午後6時51分(日本時間0時51分)。この間の25時間の間、水も飲まない断食を行い、神、主の前に静まり、へりくだり、その赦しを受け取る。

この日は、政府、学校、店もすべてが閉まる。世俗派と言われ、普段は宗教的なことをしない人々でもほとんどが断食をする。テルアビブのハイウェイもガラガラである。

8日午後4時ぐらいから道路上に車はなく、人々は歩いて近隣のシナゴーグに向かう。夕刻はまだ、こどもたちがからっぽになった道路で、にぎやかに遊ぶ声がするが、夜がふけるにつれ、いつもにまして静かな夜となる。

空港では、明日日没までは、飛行機の発着もない。まさに、国をあげて、天地創造の神の前に出る日である。

www.timesofisrael.com/israel-shuts-down-for-yom-kippur-2/(からっぽの道路など)

しかし、ヨム・キプールは、この日に悔い改めるということではない。この日は、悔い改めの終わっている罪についての赦しを受け取る日であり、神がその書に赦した人の名とその人に関することを記す日とされる。

したがって、ヨム・キプールまでの10日間に(スファラディは1ヶ月近く)、これまでの自らの歩みを振り返り、悔い改め、不仲になっている人々との人間同士の和解をはかる。まずは人間同士の和解があってから、神の前に出て赦しを請うことになっている。この期間をスリホットという。

この間、人々は、「グマル・ハティマ・トバ(神の書によきことがかかれますように)」と挨拶する。7日は、その最終日とあって、嘆きの壁は約10万人で埋め尽くされた。

www.israelnationalnews.com/News/News.aspx/269922 (ビデオあり)

スリホットでは、深夜0時に、2人のチーフラビ(スファラディとアシュケナジー)がそれぞれ代表の祈りを行うが、アラブ中東系のスファラディのラビははでに泣きながらの祈りをささげ、欧米系アシュケナジーのラビは品よく赦しを請う祈りを捧げる。それにあわせて、嘆きの壁にいる10万人も、一斉に祈りの声を上げる。

ヨム・キプールの日もほぼ同じ光景である。

<リブリン大統領:刑務所厚生施設を訪問>

リブリン大統領は、スリホットの期間中、刑務所からの出所した人の更生施設で生活する女性、ダラル・ダウドさんを訪問した。

ダラルさんは、家庭内暴力に耐え続けて夫を殺し、終身刑の判決を受けて服役。すでに18年が経過していた。リブリン大統領は昨年、ダラルさんの状況を鑑みて恩赦とした。ダラルさんは、4ヶ月前に刑務所から出所したが、すぐに社会復帰ができるわけはなく、以後、この厚生施設で生活している。

ダラルさんは、できれば社会に復帰し、働きたいという願いを持っている。リブリン大統領は、「自分にあきらめるないように。国はあなたがたを必要としているから。」と励ました。

大統領は、3ヶ月前に、最愛の妻ネハマさんをなくしたばかり。その後もまったく休みをとらず、以前とまったく同じように、大統領としての立場を用いて、人々を励まし続けている。

www.timesofisrael.com/ahead-of-yom-kippur-rivlin-brings-message-of-forgiveness-to-ex-convicts/

<石のひとりごと>

数日前、イスラエルの地上波テレビ、つまり、国民すべてが見ることのできるテレビで、「地上にいる人間で罪のないものは一人もいない。」として、悔い改めが呼びかけられていた。こんな国がいったい世界の他にあるだろうか。

イスラエルという国は、目に見える形で、聖書に書かれている通りの神の教えを、国をあげて実行することで、その存在を証している。

イスラエルはそのよい行いによって、または常に祝福されている姿でもって神を証ししているのではない。ただその教えに忠実であるという姿。しかし、しょっちゅうそのことに失敗して、痛い目にあい、ようやく軌道修正する姿。

しかも何度失敗しても見捨てず、この国が存在し続けていることで、この神が、実在することと、決して見捨てることのない神であるということを証している。

しかし、それだけが目的なのではなく、実際のところ、この聖書の神の戒めを守ることは、人間の益になることである。1年に一回でも、このように、自分を超え、自分を裁く立場にある神の存在を覚えることで、生き方の軌道修正ができ、結果的に自分を守ることになるからである。

しかし、日本には、自分を超える存在はないと言ってもよいだろう。宗教は数あるが、基本的には、自分の幸せを叶えるための方策としての存在であり、また恐れである。さらに、昨今では、その存在すら、軽視される傾向にある。

そうなるとどうなるだろうか。人間は、自分がすべてであり、自分の考えや行動だけが基準になってしまう。罪という認識がなくなる。そうなると、わけのわからない殺人や、自分の子供より、自分のニーズを優先させるといったモラルの崩壊に陥ってしまう。

前にも書いたが、聖書をただの宗教の一つとして無視することはあまりにも、残念。いや危険である。世界情勢はどんどん聖書に書いてある通りの動きに入り始めている。しつこいようだが、日本の同胞諸氏にもぜひ聖書に興味を持っていただきたいと願うところである。

石堂ゆみ

ジャーナリスト、元イスラエル政府公認記者、イスラエル政府公認ガイド、日本人初のヤド・ヴァシェム公式日本語ガイドとして活動しています。イスラエルと関わって30年。イスラエルのニュースを追いかけて20年。学校・企業・教会などで講演活動もしています。