国際ホロコースト記念日:エルサレムで杉原千畝氏に敬意のプレート 2019.2.2

2019.1.27  
1月27日は、アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所がソ連軍によって解放された日である。国連はこの日を、国際ホロコースト記念日と定めている。今年も国連はじめ、様々な地域で、記念式典で行われた。

イスラエル自身のホロコースト記念日は、独立記念日の前日で、今年は5月1日だが、1月27日には、エルサレムのヤドバシェムなどで、小さめの記念行事が行われた。

エルサレムには、ヤドバシェムが建設されるより前の建国直後の1949年に、シオンの丘に建てられた元祖・ホロコースト記念館(*Chamber of Holocaust Museum)がある。ここで、この日、特に日本人で義なる異邦人の外交官・杉原千畝氏の働きを記念するプレートが披露された。

杉原千畝氏は、1939年、リトアニアのカウナスに駐在していた際、ナチスの迫害を逃れて次々に押し寄せるユダヤ難民を前に、日本外務省の意向に反して、日本への通過ビザを大量に発行した。

当時の日本政府は、ナチスドイツと同盟関係にあったことから、杉原氏の決断は、国への裏切りだけでなく、自分と家族がナチスに狙われる可能性があった。しかし、その英断の結果、約6000人のユダヤ人が救われた。その人々から生まれ出た子供や孫たちの数は4万人にのぼるとみられる。

杉原氏のビザで一命をとりとめた父親を持つアブラム・シメリング氏によると、当時リトアニアのビルナにいたシメリング氏の一族で助かったのは、この父親だけだった。しかし、その父親から生まれた子供たち、孫たちは今や、計60人にのぼるという。

主催者の一人、シュロモー・グール氏は、杉原氏が、「ユダヤ人を助けることは政府には不従順になるが、助けなければ、神に反逆することになる」と判断したことを高く評価した。

また、この記念館館長、ラビ・イツハク・ゴールドステインは、杉原氏が、救出したユダヤ人の多くが、後にエルサレムのメア・シャリームでのユダヤ教の主流となるミール・イシバの学生たちであったことから、特に杉原氏の功績は大きいと語った。

このイベントの主催は主に旧ソ連関連のユダヤ人組織などで、出席者約30人も、旧ソ連からのホロコースト生存者、またその次世代の人々であった。日本からは在日本大使館の相星孝一大使が出席した。

式典では、ギター一本、ロシア語での弾き語りで、杉原千畝氏に送る歌、「サムライの道」が披露された。

www.youtube.com/watch?v=eQ-o_Co5tcw&start_radio=1&list=RDeQ-o_Co5tcw&t=16 (このイベントではないが同じ歌:始まるのはだいぶ後)

*Chamber of Holocaust シオンの丘にあるホロコースト記念館

ホロコースト記念館といえば、ヤドバシェムだが、ヤドバシェムが開設されたのは、1957年である。ホロコースト記念館の計画は、戦争がまだ終わらない1942年にはすでに始まり、1949年に、まずシオンの丘に記念館が建てられた。

当時、ユダヤ人が嘆きの壁に最も近づけた場所である。シオンの丘の記念館には、ホロコーストで、消滅させられた町々の名前を記した石板が2000枚以上展示されている。

また記念館内部には、主にマイダネク強制収容所から持ち込まれた、犠牲者の灰が埋葬され、文字どおり、墓場すらもてなかった人々のための墓場の役割を果たすことになった。

展示物の中には、人間の灰が入っていた多数の壺のほか、ナチスが作らせたトーラーの巻物で作ったジャケットや、バッグなどがある。また、血をいっぱい吸い込んだとみえる黒々したトーラーの巻物もあった。

この記念館の管理者の一人で歴史家のアーロン・セイデンさんによると、ヒトラーは、ユダヤ人を殺すことはトーラーを殺すことであると言っていたという。

墓場の役割を果たすだけあって、ヤドバシェムより、うすぐらく、よりホロコーストの恐怖を実感させる場所である。この場所に杉原千畝を記念するプレートが設置されたわけだが、主催者らは、日本人旅行者にもっとこの場所に来て欲しいと言っていた。

*ミール・イシバ https://vimeo.com/21125312

現在、エルサレムのメア・シャリーム地区にある世界最大のイシバ。世界各国からユダヤ人男女8000人以上が学びに来ている。1814年、ベラルーシのミールで設立された。

第一次世界大戦後にリトアニアへ移動。第二次世界大戦中、イスラエルへ拠点を移す計画が進んでいたが、ナチスの進出で頓挫。多くのラビや学生たちが、上海の日本占領下での強制収容所に流れ着いた。杉原千畝故大使のビザで日本を経由し、上海やアメリカへ渡った者も多い。

戦後、上海から逃れた者たちが、イスラエルに到着し、現在のミール・イシバを立ち上げた。この経過から、杉原千畝氏は、現在におけるリトアニア派の超正統派ユダヤ教に大いに貢献したといえる。

<石のひとりごと>

ヤドバシェムでは、杉原千畝の影はそれほど大きくない。おそらくヤドバシェムは欧米系ユダヤ人が主体となって設立されたからだろうか。今回、シオンの丘でのこの式典に出席し、ロシア系ユダヤ人にとって、杉原千畝の功績がいかに大きかったかを実感した。

海外に出たことのある人は皆、ビザ取得問題で苦労するのだが、当時のユダヤ人は、背後にナチスが迫っていたのであるから、ビザはまさに生きるか死ぬかの瀬戸際であった。日本大使館で、杉原大使からビザを出してもらえた人々の底なしの安堵を思わされる。

また杉原氏がビザを発行した期間は、1940年7-8月のわずか2ヶ月足らずの間であった。この期間に間に合わなかったリトアニアのユダヤ人、またポーランドから逃れてきていたユダヤ人たち、20万人近くは、ほぼ全員虐殺された。

まさに地獄に一瞬おろされた命綱であった。杉原氏のビザに救われた人々とその子孫たちの底なしの感謝も理解できるだろう。

極限に立たされた時に、自分よりも家族よりも、何よりも神を畏れる決断をすること。杉原千畝氏が、日本人としてはめずらしくロシア正教のクリスチャンで、命の創造主である全能の神を知っていたことを特記しておきたい。

石堂ゆみ

ジャーナリスト、元イスラエル政府公認記者、イスラエル政府公認ガイド、日本人初のヤド・ヴァシェム公式日本語ガイドとして活動しています。イスラエルと関わって30年。イスラエルのニュースを追いかけて20年。学校・企業・教会などで講演活動もしています。