今回のヨム・キプールは、金曜土曜と週末とぶつかった。そのため金曜のイスラムの礼拝後、暴動になるとの懸念があった。イスラエルは治安部隊を増強し、厳重な警戒にあたっていたが、幸い、何事もなく、2日間が終了した。
<国をあげての完全なシャットダウン>
13日、日没が近づくと、テレビも放送を停止。ニュースも1日半なしだった。驚きは道路。信号が全部シャットダウンしているのだ。
いくら道路を閉鎖しても信号ぐらいは作動していないと、もしかして車が通った場合に危ないと思うのだが、とにかくこの日は道路上を車が走ってはならないということである。
電車もタクシーも観光客のバスも、もちろん商売のトラックもいっさい走れない。本当に国がシャットダウンしている。日本ではありえない、この様子。イスラエルのガッツに驚かされた。ここはやはりユダヤの国、いや聖書の国なのだ。
この2日間は移動手段が徒歩しかないため、遠方に住む敬虔なユダヤ教徒で、嘆きの壁で過ごしたい人は、ユダヤ地区のイシバ(神学校)に寝袋やマットレスを持ち込んで泊まり込み。エルサレム・アッセンブリーでも、歩いて礼拝に来れる人以外は、教会に泊まり込んで土曜の礼拝を守った。
<シナゴグでの礼拝>
ヨム・キプールの夜、近くのシナゴグに行ったが、大勢のユダヤ人でいっぱいだった。祈祷書にしたがって、ろうろうと祈りを歌い上げる男性の声(コール・ニドレ)に民衆が時々一緒に歌うという祈り、賛美のくりかえし。
途中で、「身を戒める」「信仰をためされる」の一環として、シナゴグへの献金の時があった。教会のようにかごが回ってくるのではなく、階下の男性たちが「400シェケル!」「300シェケル!」などと、まるでせりのように献金の宣言が行われていて興味深かった。
通常じっとしているのが苦手なはずのユダヤ人だが、延々と2時間半たっても礼拝は終わらなかった。9時になって疲労に耐えかねて外へ出ると、歩行者天国になった道路で大勢の子どもたちが自転車をのりまわしていた。
大人たちは夕涼み、散歩などでにぎわっていた。昼間は38度を超える暑さだが、日没後は実にすごしやすい気候である。エルサレムでは、83%の人が断食すると言われているが、12才以下のちびっ子は断食する必要はない。
通常、金曜の夜となると、若者たちが夜中でも騒いでいるが、この夜ばかりは木々のそよぐ音がひびくだけの非常に静かな夜、祈りやすい夜となった。
<嘆きの壁の様子(終了直前)>
14日、夕刻になり、嘆きの壁に(歩いて)行った。夜7時半に25時間の断食が終わると同時に、ユダヤ教の男性たちが、小さなサンドイッチと飲み物を群衆に配布。
男性も女性も、その場でがっついているのは、前のティシャベアブの時と同様だ。ごみの後かたづけは、例によってアラブ人たち。
一昨日のスリホットとちがって、ヨム・キプール終了1時間後の午後8時半ぐらいには、人々の姿はもうかなりはけていた。スリホットの時は夜中でも群衆が歩いていたのに、今日は帰り、やばい道を1人で歩かなければならなかった。
この極端・・・。人々の心はもう18日から始まるスコットに向いているのだろう。イスラエルは実にめりはりのきいた国である。