目次
ワルシャワゲットー蜂起から80年
戦没者記念日、独立記念日の1週間前の17日日没から18日は、ホロコースト記念日であった。今年は、ポーランドのワルシャワゲットー蜂起(1943年)から80周年にあたることから、特にこれを覚える時となった。
*ワルシャワゲットー蜂起
1943年4月、ポーランドはナチスドイツに侵攻され、国が滅亡してから4年近くになっていた。ユダヤ人たちは、ナチス支配域の主に総督府にあった1000以上ものゲットーに入れられて、多くは、餓死病死という地獄の日々を送っていた。
1942年からは、いよいよガス室での殺戮がはじまり、ゲットーにいたユダヤ人たちが次々に殺人工場に送られるようになった。ポーランド首都ワルシャワにあったワルシャワゲットーでも1942年夏に、26万人がガス殺戮場へ送らた。
この時に残された約6万人の中にいたアニエレビッツ(当時23歳)ら若いユダヤ人たち数百人が手製の武器などで立ち上がり、1943年1月、住民移送に来たドイツ兵たちの撃退に成功する。これを見て、当時ゲットーにまだいた人々が全員立ち上がる決意をする。
その3ヶ月後3ヶ月後の4月19日、ナチスは報復として、過越の日を選んで、大部隊をワルシャワゲットーに送り込んできた。ユダヤ人が勝てるはずもなく、ナチスは1万3000人を殺害(6000人を生きたまま焼き殺した)。5万人をガス室へ移送し、ワルシャワゲットーを完全に破壊した。
この殺戮をあえて過越の夜に決行することで、ナチスは、ユダヤ教、言い換えれば聖書の神を愚弄した形である。霊的な背景があったことは想像に難くない。
しかし、ナチスを迎え撃つ前夜、過越の夕食の時、ワルシャワゲットーでの蜂起をリードした、モルデカイ・アニエレビッツ(23か24)は、「私たちは明日死ぬ。しかしユダヤ人は死なない。」と語ったという。ただ羊のようにだまって殺されていったホロコーストの中で、ユダヤ人が初めて、誇りを持って立ち上がった瞬間であった。
しかし、この事件のあと、いよいよヨーロッパ中からユダヤ人がアウシュビッツに移送され、100万人が殺されていった。このわずか5年後に、ユダヤ人の国、イスラエルが独立したということである。
ホロコースト前のユダヤ人人口にまだ届いていないという事実
中央統計局によると、世界のユダヤ人人口は、1530万人で、戦前(1939年)の1660万人にはまだ回復しきっていない(厳しく明らかにユダヤ人と本人も自覚している人)。イスラエルに在住するホロコースト・サバイバーは、14万7199人。この61%は女性で、男性は39%。
サバイバーのうち、4.5%は1933―1947年前の建国前にイスラエルへ移住。31%は、1948―1951年の戦後独立後に移住。34.1%は、1990年年代の旧ソ連からの移住の波の時代にイスラエルに移住していた。
史上初:イスラエル・トイツ・ポーランド首脳がホロコースト記念日を共有
国際社会ではなく、イスラエルが記念するホロコースト記念日には、ポーランドのアウシュビッツで、イスラエルからヘルツォグ大統領はじめとする一行と、世界中に在住するユダヤ人とホロコーストを覚えようとする諸国民の若者たちが、アウシュビッツに集まり、ともに歩くというイベントが行われる。(March of Living)
今年は、初めて、ポーランドのドュダ首相とイスラエルのヘルツォグ大統領に、ドイツのスタインマイヤー大統領が加わった。3者は、ホロコーストに関して、まだ完全な解決を見ていない。
まず、ポーランドは、ポーランドも犠牲者であると主張しており、イスラエル人ユースグループに、ポーランド人虐殺現場の見学を要求し、イスラエルでは問題となった。またドイツには、ポーランドに対する十分な保証がなされていないと訴え、ドイツともまだ揉めているところである。しかしながら、ポーランド人の多くはナチスに協力していたことも忘れてはならない事実なので、3者それぞれに、課題は残る。
そうした中、3者がそろってアウシュビッツに集まったことは、注目に値する。ヘルツォグ大統領は、ポーランドのデュダ首相に、このイベントと開催してくれたことに感謝し、3国の友情の基盤になることを期待すると語った。
今回特に注目されたのは、ドイツのシュタインマイヤー大統領が、「ナチス」という言葉を使わず、「ドイツ人」の犯罪と述べた点である。国を挙げての悔い改めを表した形となった。