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新年早々のGood Newsはエルサレムのダビデの町より。
今はほんの一部しか発掘、公開されていないエルサレムのシロアムの池の全体を発掘し、公開すると、イスラエルの考古学庁、イスラエル国立公園、ダビデの町が共同で発表した。
そのシロアムの池からは、神殿に続く巡礼の道があり、発掘される途上にある。近い将来、シロアムの池から、神殿の丘に向かって巡礼が歩いていくということも可能になってくるのかもしれない。なんともわくわくするような発表である。
ダビデの町とシロアムの池
ダビデの町は、神殿の丘から、ソロモンの宮殿、ダビデの宮殿、かつての書庫や政府関係の部屋、ギホンの泉から、ヒゼキヤのトンネルを通って、谷底にあたるシロアムの池に続く、まさに聖書の遺跡である。
ここに来れば、ダビデもソロモンも本当にいたこと、バビロン捕囚や、ローマ帝国による神殿崩壊とその時の壮絶な戦いが現実であったことがわかる。考古学がそれを証明している。
シロアムの池の水は、ギホンの泉からの湧水からひかれたものであり、かつて、第二神殿時代には、神殿の丘へ巡礼に行く人々がミクベ(罪を言い表し、その聖めの象徴として水に入ること)として利用していたと言われている。
シロアムの池でのミクベを終えた巡礼者たちは、そこから神殿に続く600メートルほどの広く、にぎやかな巡礼道、階段をのぼっていったと考えられている。
*以下はその様子の動画
この巡礼道は、イエス・キリストがいた第二神殿時代後期には存在していたことから、イエス自身も弟子たちも歩いたと考えてさしつかえないだろう。
www.bibleplaces.com/poolofsiloam/
ダビデの町は、3000年以上前から、エルサレムを支配していたのがユダヤ人であったことを証明する政治的な意味合いもある場所である。
シロアムの池とその発掘
シロアムの池は、2700年前の紀元前8世紀、ヒゼキヤ王が、アッシリアからの攻撃に備えるために、城壁の外にあったギホンの泉を城壁の中へ引き込んで、貯水池として作ったと考えられる。バビロン捕囚になる前の第一神殿時代のことである。
ヒゼキヤのその他の業績、彼のすべての功績、彼が貯水池と水道を造り、町に水を引いたこと、それはユダの王たちの年代記の書に知るされているではないか。(聖書第二列王記20:20)
この証拠としては、水道(トンネル)は、533メートルに及ぶ長い水路である。双方から掘り進めて両者が出会ったところに、石板があり、ヒゼキヤ王の支持により、この工事が行われたと書かれた石板が発見されている。
その後、バビロンに破壊されたが、イスラエル人たちは、70年後に戻ってきて、ダビデの町と神殿の丘を立て直すことになる。シロアムの池が、立て直され、ミクベとして使われるようになったのは、ヘロデ大王が、第二神殿時代を壮大に増改築したころ(第二神殿時代後期)と言われている。
イエス・キリストの時代には、多くの人々で賑わっていたと考えられる。盲目の人が町の上の方で、イエスに会い、目に泥をぬられて、シロアムの池に行って、洗うよう指示されたが、それに従ったところ、目が見えるようになった。シロアムの池は、新約聖書の舞台でもある。
近代19世紀に入って、シロアムの池の淵にある階段が、イギリスのキャサリン・ケニオンとその考古学チームが発見された。2004年に、水道工事で偶然また池の階段が発見され、イスラエル考古学庁の元、考古学者エリ・シュクロン氏らが発掘を実施した。
今に至るまで、その一部の階段部分だけが発掘され、公開されていたが、その全体が発掘公開されるということである。全体の発掘にそれほど時間はかからないとみられているようである。
最初は考古学発掘の様子だけだが、数ヶ月後には、全体が発掘されたシロアムの池から、神殿の丘へ続く巡礼道に続いて観光客に公開されるみこみである。(考古学庁資料より抜粋翻訳)
シロアムの大きさは、60メートル×50メートルと推測されている。
石のひとりごと
ダビデの町は、イスラエル旅行では絶対はずせない場所。近い将来、神殿への道をユダヤ人だけでなく、イエスの十字架と復活を信じて、罪許され、このイスラエルの神につながった異邦人もまたこの道を歩いて行くのかもしれない。
終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れてくる。多くの民が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。(イザヤ書2:2-3)