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罪を認めたオーストリア
11月9日は、クリスタルナハト(水晶の夜)から83年となった。その記念する日、その主な舞台であったドイツ、オーストリアでは、国家行事が行われた。オーストリアでは、この日、ウイーンに700万ドル(7億8000万円)かけて造られたホロコースト・メモリアルの除幕式が行われた。
このメモリアルには、160枚の御影石にホロコースト犠牲者6万4440人の名前が刻まれている。この人々はオーストリアにいたユダヤ人で、1938年にナチスがオーストリアを併合した時から、行き場を失い、多くはアウシュビッツなどで虐殺されたのであった。
オーストリアが国内にこのメモリアルを建てるまでには、サバイバーたちの長い運動があったという。オーストリアは、ナチスに併合されたことから、いわば犠牲者でもあった。
ユダヤ人迫害については、ナチスに協力した一面もあり、決して責任がないとはいえないのだが、国として、それを認めることは難しいということである。
しかし、2000年代に入って、オーストリア政府は、国内に住んでいた6万4440万人については、その責任を認めたということである。このうち5万人はウイーンにいたユダヤ人で、クリスタルナハトの時に殺害された人も含まれているとみられる。
シャレンバーグ首相は、記念式典において、「私たちはあまりにも長く、犯罪への協力という歴史的な責任に背をむけてきた。」と明確にその責任を認めている。
www.timesofisrael.com/on-kristallnacht-anniversary-austria-unveils-memorial-wall-with-64440-names/
*クリスタル・ナハト(水晶の夜)
1933年に発足したナチス政権が、いよいよユダヤ人追放政策を開始。1938年10月、ナチスは、ポーランド系ユダヤ人1万2000人を、ドイツからポーランドの境の山中に追放する。
この時、ポーランドがこのユダヤ人を受け入れなかったため、1万2000人は寒い山中で行き場を失った。
その中に両親と兄姉がいたハーシェル・グリンスパン青年(17)は、当時パリにいた。この事件のことを聞き及んだグリンスパンは、怒りでナチス高官を殺害する。ナチス宣伝担当のゲッペルスはこの事件を利用し、ユダヤ人への危機感を煽ったのであった。
こうして、1938年11月9日の夜、ナチスは、ドイツ全土と、併合したばかりのオーストリアで、SA(ナチス突撃隊)や、ヒトラーユーゲントを扇動し、一部の暴徒化した近隣住民らも加わって、ユダヤ人の店舗やシナゴーグ、ユダヤ人家屋のガラスを破壊し放火して破壊した。
この夜は、火が非ユダヤ人の家に燃え広がりそうにならない限り、消防が消化活動をすることはなかったという。近隣住民もただ眺めているだけだった。
この夜破壊されたガラスの破片が月の光を反射して水晶のように見えたことから、「水晶の夜」と言われている。特に被害が大きかったのはユダヤ人人口が特に多かったベルリンとウイーンであった。
この一夜で破壊されたシナゴーグは1400以上。少なくとも91人のユダヤ人が死亡した。また、ユダヤ人男性3万人が強制収容所へと連行された。
この事件を境に、ユダヤ人への暴力が加速し、ユダヤ人たちが行き場を失って、やがて大量虐殺へと進み始めることとなった。
www.timesofisrael.com/kristallnacht-assassin-herschel-grynszpan-heroic-boy-avenger-or-psychopath/
詳細(日本語) https://encyclopedia.ushmm.org/content/ja/article/kristallnacht
以下はヤド・ヴァシェムの特設サイト。
www.yadvashem.org/yv/en/exhibitions/kristallnacht/index.asp
毎年恒例行事:Let there be light
毎年恒例となったMarch of the Living の“Let there be light”では、夜に光を灯すいベンドが、パリ、ワルシャワ、ブダペスト、テサロニキ、エルサレムでも行われた。
エルサレムでは、旧市街の壁にクリスタルナハトを覚える映像と、世界各国の首脳のメッセージや、サバイバーたちのメッセージが映し出された。
大統領官邸のシナゴーグも夜の暗闇の中で光が灯された。ヘルツォグ大統領は、「反ユダヤ主義を根絶させなければならない。この日を覚え、継承し、このようなことが2度を起こらないようにしなければならない。」と語った。
以下はMarch of the Living のオンラインイベント。