エルサレム南部、アルノナのアメリカ大使館のすぐ近くで、ユダ王国、ヒゼキヤ王、マナセ王時代(紀元前8世紀から7世紀中盤まで)の遺跡が公表された。
遺跡には、遠くからもみえるほどの高さ20メートル、7デュナム(7000平方メートル)に及ぶフリント石を積み上げた人口の石の壁の跡がみられる。この構造は第一神殿時代の終わり頃に作られたとみられるもので、あちこちでみつかっているが、これについてはよくわかっていないという。
<第一神殿時代のLMLKの印>
今回、最も注目された発掘は、ヘブライ語で書かれた「LMLK ラメレック(王のために)」という印、また、ユダ王国時代の高官や裕福な人物の名前が入ったジャーの取っ手が120個も発見されたことである。
LMLKとは、王に所属するものということで、そのジャーに入っているものは、人々からの捧げ物、税金として支払われたものという意味も含まれていると思われる。同様に、人物名のあるものは、その人物に属するものということになる。人物名については、同じ名前が他の場所からもでていることから、これらの人々が、かなりの高官であったと推測できる。
LMLK印は、太陽とその両側に翼の絵があり、その上にLMLK、その下にユダヤ王国の重要な都市、ヘブロン、ジフ、ソコ、マムシットという名前が掘り込まれている。マムシットについてはまだ議論されているが、ヘブロン、ジフ、ソコは聖書に出てくるユダ王国の町であり、聖書を裏付ける重要な発掘と言われている。
これらの発掘物と、この場所が、神殿の丘の南に広がるダビデの町(ダビデやソロモンが在住した場所)と、その西にある王たちの宮殿があったとされるラマット・ラヘルの間にあることから、ここが行政機関の一つであったと推測されている。
発掘物から推察すると、ここでは、当時のユダ王国の政府が、飢饉の際に農産物を分配する場所として、また、通常では、ワインやオリーブなどの農産物の売買をして、税金を徴収するといった経済活動が行われていたとみられる。
時代背景が、ヒゼキヤ王の時代で、アッシリアから軍事遠征でやってきたセナクリブ王と対峙していた時代であることから、かつてはオリーブやぶどう園、ワインプレスなどもある農園であった場所に、必要に応じてこの施設が作られた可能性がある。
<バビロン捕囚時代・帰還後>
興味深いことに、この場所は、アッシリア遠征後も同様に使われ続けた形跡があり、バビロン捕囚のころにも使われていた形跡があるという。発掘された石灰の女性、馬に乗る像や動物をかたどったものは、聖書が記しているように、当時のユダヤ王国で行われていた偶像礼拝を裏付けるものと考えられる。
また、この場所は、アケメネス朝ペルシャの時代の紀元前538年、バビロン捕囚から帰還してダビデの町が再建された時代にも再び使われるようになったともみられている。
近年発掘された同時期の遺跡の中で、この発見は、最も重要なものだと発掘チーム代表のネリア・サピーロ博士、ネイサン・ベン・アリ博士は語っている。
なお、この遺跡は、新しい居住区の建設を進める中で、発見された。将来は、考古学的に重要な場所であるとともに、市民たちが住む場所としての形にするため、イスラエル考古学局と国土省との協力で、開発をすすめていくとのことである。(イスラエル考古学局資料より)
www.timesofisrael.com/huge-kingdom-of-judah-government-complex-found-stones-throw-from-us-embassy/