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エルサレムでは、8日、考古学庁と嘆きの壁遺産基金が、第二神殿時代(紀元前6世紀から1世紀)の遺跡で、神殿へ上がる前の、泉がある豪華な広場とその周辺施設の遺跡を、この秋、一般公開するとして、まずメディアに公開した。
新たに公開されるエリアは、第二神殿時代の西暦20-30年、ちょうどイエス・キリストがいた時代からの遺跡である。今は、海外からの観光客がほぼ停止状態にあるが、観光が戻った際には、ユダヤ人だけでなく、多くのキリスト教徒も訪れるとみられる。
新しく公開される遺跡は、今の嘆きの壁地下トンネルツアー(Western wall tunnel:神殿の丘の西側の壁沿いを歩く)の新たなルートとして組み込まれることになるとのこと。
www.timesofisrael.com/magnificent-2000-year-old-city-hall-unearthed-near-western-wall/
エルサレムの第二神殿時代の社会を表す現場
イスラエルとエルサレムの神殿の関係は深い。その歴史は、ソロモン王が建てた第一神殿に始まる。神殿は、ユダヤ人たち(ヘブル人)が、聖書の神を礼拝し、その神の前で罪を贖ってもらう場として、イスラエル社会の中心的な存在であった。
第一神殿は、586BCにエルサレムがバビロンが攻めてきた際に、破壊された。それから70年経って、バビロンで捕囚となっていたユダヤ人が戻ってくると、ユダヤ人たちは、まもなく小さい第二神殿を建設する。
それを拡大して整備したのが、ローマ帝国からこの地方の支配を委任されていたヘロデ大王であった。イエス・キリストがいた時代である。今、残っている神殿の丘の外壁は、下の方だけではあるが、この時代のオリジナルである。
*以下は第二神殿のモデル:南側からのアプローチで、はじまってすぐ見えるのはロビンソンアーチ。今回のウイルソンアーチは見えていない。
第二神殿への入り口は複数あるが、西側から神殿に上がっていく門は4つ。ロビンソン・アーチと、バークレーゲート、ウイルソン・アーチ、ウオーレン・ゲートである。いずれも発掘した考古学者の名前からとられた名称である。
今回、公開されるのは、このウイルソン・アーチ周辺に作られた、いわばVIPのための部屋である。
主任考古学者のウェクスラー・ドラフ氏によると、発掘された大きな部屋は、祭司や官僚、来賓など、当時のVIPが神殿の丘へ上っていく前に利用したレセプションのための部屋で、2つの部屋の間には、贅沢にも、人工の泉があったという。そのパイプには、コリント式と言われる豪華な装飾が施されていた。
エルサレムは、常に水不足の都である。泉は本物ではなく、おそらく、VIPがいた間だけ、手動で組み上げた水をどうにかしてこの部屋で溢れるようにしていたと想像されるが、これについてはまだ謎だとのこと。
この施設がかなりのVIP用であったことから、イエスが来た可能性は低いと思われる。しかし、神殿という神聖な場所のすぐ近くに、かなり政治的な要素があったというのも第二神殿時代らしいことかもしれない。
その後、70AD、この第二神殿は、ローマ帝国によって、完全に破壊される。それまでの50年ほどの間、これらの部屋には、何度か改修が行われた。神殿が破壊される前には、泉はなくなり、部屋は3つに分けられ、そのうちの一つには、ミクベ(神殿へいく前に、罪を告白して全身つかる儀式的な聖めのプール)がつくられている。このミクベは、この時代のエルサレムでは最大級の大きさだという。
この発掘現場のすぐ近くでは、昨年にも迫り来るローマ帝国の手から隠れていたとみられるユダヤ人たちの隠れ家にような生活の後がみつかっている。ミクベがこの時代に作られたていることから、ローマ帝国との攻防戦の時代の名残りかもしれない。
神殿崩壊記念日に合わせた?公開発表
上記のように、イスラエルにとって神殿は、その心臓部分といってもよいほどに重要な存在である。
しかし、第一神殿に続いて、第二神殿も破壊され、以後ユダヤ人は、流浪と迫害の歴史をたどった。それから1900年あまりたって、今、ユダヤ人がこの地に戻り、イスラエルを再建したが、まだ第3神殿を建設することができていない。
ユダヤ教では、神殿がないということを嘆く日として、神殿崩壊記念日という日を設けている。ユダヤ暦で、アブの月の9日、ということでティシャ・べ・アブとよばれている。その当日は、断食して涙を流し、座り込んでバビロンによる破壊、ローマ帝国による破壊を覚えて嘆く日とされる。
超正統派や正統派の中には、その日に至る9日間、肉を食べず、髭を剃らないなどの習慣を守る人もいる。
今年の神殿崩壊記念日は、7月17日日没から18日。この日を前に、また神殿に関する考古学的な実証が公開されることは、この日を意識してのことであったかもしれない。
ところで、前向きなユダヤ人が、このような日を設けて、なぜ延々と毎年嘆くのかについて、ラビ・フォールマンは、詩篇126篇から解説する。
悲しみには、時間とともに、うすらいでいくものもあるが、うすらがないものもある。たとえば、連絡がとれなくなっている息子などである。聖書では、ヤコブがいなくなったヨセフを想い続けたことを指す。忘れたように思っても、その心にヨセフは消えなかっただろう。
その間、ヤコブが流した涙が、ヤコブ自身は知らなくても、その涙がヨセフを守り、やがて全くの予想外の形でのヨセフとの再会につながったとラビは説明する。神殿のことを忘れずに毎年涙を流して、断食することは、やがて、「主がシオンの繁栄を元どおりにされたとき、私たちは夢を見ている者のようであった。」(詩篇126:1)に繋がるのであり、「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。」(詩篇126:5)になるのである。
これはとりなしである。決して諦めず、だれかのために涙するほどに祈ること。それを続けることの大切さと希望を教えている。