19日、神戸では、旧神戸ユダヤ共同体跡地に設置された案内板の除幕式が行われた。今回、跡地として公表されたのは、Jewish Communityの電報名からジューコムとして知られた建物の石垣の一部である。
住所は、神戸異人館通りに近い山本通り1丁目で、現在は、神戸電子専門学校の複数の建物の間に位置している。所有は、この学校法人であり、山本通り1丁目自治会が管理する場所となっている。
戦争時代にユダヤ難民たちがいた場所であったが、そのほとんどが空襲で焼けてしまい、戦後は、神戸っ子たちも生き残りで精一杯であった。さらには、阪神・淡路大震災が発生し、この地域でも大きな被害が発生し、もはやユダヤ難民の歴史は、ほぼ忘れ去られたようになっていた。
しかし、手塚治が「アドルフに告ぐ」で取り上げたりする中、地元神戸在住の岩田隆義氏や、元ジューコムに近い一宮神社宮司で、山本通り1丁目自治会長の山森大雄美氏らが、研究をすすめている中、県立美術館の研究員から石垣の歴史が明らかになったという。
除幕式には、神戸市長のビデオ挨拶、兵庫県知事の代読挨拶、外務省からも代表が出席。リトアニア大使館公使、イスラエル大使館公使のほか、東京のユダヤ教組織代表も出席した。
戦後、神戸にはしばらくシナゴーグがなかったが、1970年から今の北野町4丁目に復活。2014年から、イスラエル人のラビ、シュムエル・ヴィセツキーさん(35)が、妻と子供達5人とともに、ラビとしての働きを行っている。
除幕式には、ラビ・シュムエルさんも、挨拶を行い、シナゴーグからもメンバーが多く出席した。
また、今回、式典では、当時13歳で、神戸にいたというバール・ショーさん(93)がオンラインで、当時の話をし、今はもうなくなったが、父親が、神戸にいたというサバイバーの家族たち2人も、オンラインで、挨拶をした。
神戸とユダヤ人の間にこれほどの関係があったことを知らなかったという人が多く、これからの神戸とユダヤ人の関係が深まっていくことを期待したい。
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<神戸ユダヤ共同体の歴史>
神戸は、明治維新の時に外国にむけて開港した港町である。その後、ロシアでのポグロムや、日露戦争、また、東京での大震災の影響もあり、日本のユダヤ人社会は、神戸に集まるようになった。
そうした中、アシュケナジー系(欧米系)のユダヤ人たちが、おもに、アメリカのユダヤ人社会の支援を受けながら、神戸ユダヤ共同体、ジューコムを作り上げていく。
こうした中、世界大戦の時代を迎える。旧神戸ユダヤ共同体は、ホロコーストの時代(1933−1945年)、リトアニアで杉原千畝の「命のビザ」をもらい、はるばる日本にたどりついたユダヤ難民が、一時、落ち着いた場所である。その数約4500人から5000人と言われている。
難民たちは、1940年7月ごろから到着しはじめ、第3国が決まった人たちから、神戸から出発していった。1940年7月末、太平洋戦争が緊迫してくると、このころまだ神戸にいたユダヤ人のほとんどは、上海へ送られた。
そこからそれぞれ各地へ出発していくことになる。約400人が、上海からフィリピン、インド、エジプトを経由して、今のイスラエルの地、パレスチナ地方にたどり着いている。
<石のひとりごと>
日本に来たユダヤ難民については、杉原千畝さんがクローズアップされるが、歴史を調べると、杉原さん以外にも、実に多くの人々や団体がこれを可能にしたことがわかる。
まずは、オランダの領事がキュラソーへ行くビザをだしていたから、杉原ビザの日本通過ビザが可能になったという点や、その後、旧ソ連からの脱出許可が、奇跡的にとれたり、日本への移送を担当したJTB、敦賀で受け入れを決意した外交官や、ビザの延長に奔走した小辻節三氏など。
また、神戸での生活を経済的にささえたのは、アメリカのジョイントとよばれるユダヤ人団体であった。米食が合わない難民には、当時神戸にあった外国の領事館がパンを届けたりということもある。しかし、難民たちは、反ユダヤ主義暴力の世界から来ただけに、神戸の人々が普通に接してくれたことに、「神戸に反ユダヤ主義はなかった。」と、驚きと感謝をもって受け止めていたようである。
こうした流れを見ていると、ちょうど黙示録12章のように、後ろからナチスが追いかけてくるのを、間一髪で次々に抜け出し、多くの困難をすべてクリアしていく将来のユダヤ人たちのようである。
そうして一時的な休息の場を与えられると黙示録入っているが、まさに神戸が当時のユダヤ難民にとっての、ひとときの休息の場となったのであった。これからこの歴史がもっと日本やイスラエルでも知られるようになればと思う。
また、このことを通して、神の戸である神戸から、聖書の民と聖書の香りがもっと入ってくるようにと祈りたい。