独立記念日の直前の22日は、戦没者記念日だった。21日夕刻には、嘆きの壁でリブリン大統領とエイゼンコット・イスラエル軍総司令官が厳粛な式典を行った。テルアビブのラビンスクエアでは著名な歌手を招いてのイベントが行われた。
小さな町でも、各地域別に記念式典が行われ、それぞれの地区の住民で戦死したり、テロの犠牲者になった人々の名前が読み上げられた。エルサレム南部の筆者在住地区では、地域に住んでいる子供たちが、公民館活動のグループ別に献花を行った。ローカルである。
22日朝には、ホロコースト記念日と同様、11時に2分間のサイレンが鳴った。走行している車を止めて車から降りるのは同じだが、ホロコースト記念日の時より、きちんと停車している車が多かったように感じた。
イスラエルでは、戦没者の犠牲があったからこそ今国があるということを理解していない人は、おそらく一人もいないだろう。実際には、それは過去の問題ではなく、今後も国を存続させるにあたり、自分や家族が犠牲になる可能性もおおいにありうる。要するに人ごとではないということである。
この日、エルサレムでは、ほとんどの店が閉まり、家族に戦死者やテロ被害者がいる人もいない人も、家族連れでヘルツェルの丘にある軍用墓地へむかった。様々なユースのグループも、群れをなして来ている。人の波は、ここでも、若い人々でいっぱい、という感じである。
軍用墓地では、ずらっと並ぶすべての記念碑(墓)にイスラエルの旗と花々が置いてある。家族や、友人たちはその周りに座って、そこで何時間かをすごすのである。遠くでラビが大きな声で祈っている声もする。
ヘルツェルの丘での国家式典は、これまでのすべての戦争で命を落とした兵士たちのための式典と、午後からはテロ被害者のための式典が行われた。ネタニヤフ首相やリブリン大統領とともに、遺族たちが献花を行った。
式典の後、まだ幼い子供たち2人を連れている若いお父さんたち2人に話を聞いた。家族に犠牲者がいるわけではないという。「これは、過去の問題ではなく、今も続いている問題。息子にはきちんと理解してほしいから連れて来た。」と言っていた。
ある正統派と思われる女性が、若いティーンエイジャーの少女たちとともにちらしを配っていたので聞くと、この後すぐ、テロ被害者の話を聞く会を行っているという。女性は教師で、若い人たちに、正しく学んでほしいからこういう活動をしていると言っていた。若い人たちはきちんと理解していると思うと言っていた。
テレビでは、特に昨年のガザとの戦争「ツック・イタン作戦」で、帰らぬ人となった兵士たちの両親や家族たちに、その後どう暮らしているのかといったインタビュー番組が続いた。
兵士たちはみな20才前後の立派な若者たちである。兵士たちがまだ小さい子供だった時、ティーンエイジャーとなり、軍服を着ている写真や友達と笑っているビデオがテレビで流された。どの親たちも目をまっ赤にしながら、今も痛みが休まることなく続いていると言っていた。息子のベッドルームもそのままにしてあるという。
ある父親は、ヘルツェルの丘にある息子の墓地で、「ここに来ると、多くの人が息子を覚えてくれているのがわかる。国が一つになっている姿は、息子の命の代価だと思う。痛みは耐え難く、毎日アスピリンを飲むことに変わりはないが、それでも、ここに来ると力をもらう。」と語った。
恋人をなくした美しい女性たちもテレビに出ていた。「毎日毎日痛みから解放されることはない。しかし、生きて行かなければならない。前を向いて行くしかない。」と語っていた。
こうして、国をあげて遺族の話をきき、墓で共に泣く。いわば国をあげてのグリーフケアだと感じた。
<まったなしの前進>
イスラエルにいると、往生際の良さというか、踏ん切りの良さというか、とにかく切り替えの早さには驚かされる。戦没者記念日が終わったその日の日没から、続いて独立記念日が始まる。
遺族の涙のインタビューを流していたテレビは、その同じ日の夕刻からは、祝賀番組を流している。いわば、丸一日、終戦記念日か原爆記念日の式典を放送していたテレビが、その日の夕刻には、国をあげての紅白歌合戦をやんやとやっている状態と思ってもらったらよい。
もちろん、切り替えのときには、今一度、戦没者への追悼が述べられるのだが、その後すぐに半旗から通常の位置へ旗が戻され、祝賀へと進んで行く。
遺族の中には、このあまりに急激な変化がつらいという人もいるが、国が前進している姿は、息子の犠牲の結果だと考える遺族もいる。繊細な日本人にはついていきかねる点かもしれない。
しかし、イスラエルは敵に囲まれ、悲しみや同じ所に長い間、立ち止まっている余裕はないということを、だれもが了解しているということである。
<石のひとりごと:成熟した民主主義>
イスラエルは、人種差別の国と言われることがあるが、実際は全くその逆で、イスラエルほど民主主義が成熟している国は他にはないのではないかと思う。
ユダヤ人と一言でいっても、ありとあらゆる人種がそろっている。宗教も、無神論者から、ユダヤ教(といっても様々)、イスラム教、キリスト教(こちらも様々)、その他もろもろとありとあらゆるものがそろっている。世界各国からのビジネスや研究者もやってくる。
これほどの多様な社会の中で、それぞれの権利を守るためには、よほど民主主義が成熟していなければできないことである。
イスラエル社会は、様々な人々が、同じ頃に、様々な苦難から逃れてきて、統一言語もない中で、しかも敵に囲まれた状態で、新生活を共にするという、かなりユニークな歴史をたどってきた。この状態で生活を共にするためには、それぞれの違いを認めつつ、互いの平等の権利を認め合わなければならなかった。
イスラエルの初期イシューブ(入植地)では、1902年の時点で、すでに女性の選挙権を認めていたという。イスラエル社会では、女性も男性も等しく働いていたからである。アメリカより20年近くも前のことである。
驚いたことに、イスラエルの民主主義の土台は、民主主義を知らないで育ったロシア系など共産圏から来たシオニストのユダヤ人が、必要に押されて、実践しながら形づくっていったという。机で学んだ民主主義ではなく、実践しながら、様々な失敗やテストを通して、成熟していった民主主義なのである。
イスラエルの強さは、多様性のテストを通り抜けてきたことではないだろうか。多様性を乗り越えて、民主主義が成熟しているからこそ、今、国をあげて軍隊や戦没者に敬意を表しても、極端な国粋主義者は現れないのである。
また、イスラエルでは、子供たちには、悲惨なことも事実なら隠さずにきちんと直面させている。厳しいことに、それらが知識で終わらないよう、そこから自分は何を感じたのかを認識させ、さらにそれを表現させる。
子供たちは知識を自分の中でプロセスにかけ、考えをまとめ、さらに、次にどのようにそれをいかして行くのかまで考えをまとめなければならない。これがイスラエル式の教育である。
イスラエルの子供たちは、実に多様な世界を見、その中で生きる厳しさと、考える能力を身につけて行く。能力は様々としても、少なくとも少々のことでは、おどろかない、つぶれない強い人間ができあがるのである。