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分断の時のティシャ・べ・アヴ:意外な効果?
司法制度改革が、大規模な反対を押し切って可決され、法律として施行開始となった26日、イスラエルでは、ティシャヴェアヴ(アブの月の9日)が始まった。嘆きの壁には、大勢が集まり、座り込んで祈りを捧げる様子が伝えられている。
www.israelnationalnews.com/news/374757
これは、ユダヤ人たちが、この日に起こったとされる紀元前586年の第一神殿崩壊、続いて紀元後70年のやはりこの日に起こったとされる第二神殿の崩壊を中心に、その後のさまざまなユダヤ人を襲った大患難を覚える日である。断食し、深い哀しみの中で悔い改めて、次に向かっていく。
今年は特に、イスラエルが深い分断に直面した直後のティシャベアブであった。2回の神殿崩壊は、いずれも国内の分断が大きな問題になっていた時に起こったことだったので、今のイスラエルが、その時の状態に酷似しているということは、誰の目にもあきらかであった。
嘆きの壁では、主に右派、ユダヤ教徒たちが、集まって、地べたに座り込み、共に聖書の中の哀歌を朗読した。哀歌は、バビロンによって、第一神殿が破壊され、イスラエル人が国を失って捕囚として連れて行かれた時に、預言者エレミヤによって記録された哀しみの書である。
一方、政府と対立している反対派の世俗派もこの日、断食をして、大勢が嘆きの壁に来て、祈っていたという。目的は、政府に対する反対の意思がいかに強いかを表明することであったとも言われている。
目標や視点はちがっていたとしても、例年より多くのイスラエル人が、この日に断食して祈ったということは、イスラエルの歴史上、特記すべきことともいわれている。
www.jpost.com/israel-news/politics-and-diplomacy/article-752527
石のひとりごと:イスラエルと神殿の関係
イスラエルと神殿の関係は、イスラエルの民と、その神の関係を象徴しているといえる。イスラエルとその神との関係が、良好であるうちは、神殿も国も共存できていた。しかし、イスラエルの民が、不信仰に陥り、神の存在を軽くみるようになると罪がはびこり、結果的に、神が出ていってしまうという事態になった。
そうなると外敵が来て、神殿を破壊し、イスラエルが国を失うということになった。それが一回ならまだしも、2回、同じことが起こったということである。イスラエルにとって、神殿、もっというならその神が彼らのうちにおられるということが、存在の条件だということのようである。
イスラエルは、今3回目に、この地上で約束の地に復帰をはたしている。しかし、まだ神殿はない。ユダヤ教では、イスラエルがその神殿を迎えられる状態になったら、第三神殿は立つと考えられている。しかし、今も争いがあり、罪が広がっている以上、本当に神殿は立つのだろうか?
これについては、新しい契約ということがある。キリスト(メシア・救い主)とよばれるイエスは、2回も与えられたチャンスでもまだ罪に陥ってしまい、神殿を迎える資格がなくなっているイスラエルの罪を、代わりに担って罰を負い、永遠のあがないを完了したということである。これを信じた人は、ユダヤ人であれ、それ以外の人であれ、その存在自体が神殿になるとされた。(第一コリンと10:16)
したがって、3回目もまたイスラエルという国の中に、これまでと同様に、建物の神殿ができるとすれば、それは、人間的な視野と力によるものといえるかもしれない。実際、イスラエルの中には、早くこの第三神殿を建てたいというグループがいる。それが右派たちで、その人々が閣僚になっているのが、今の政権であるということである。閣僚の中でも最大の問題児とされる極右政治家、ベン・グヴィル氏は、今年のティシャベアブのこの日も、物議の中、神殿の丘を訪問していた。
聖書によると、第三神殿は確かに、エルサレムに建つだろう。そこにやがては反キリストと言われる恐ろしい指導者が立ち、ユダヤ人はこれまで以上の迫害を受けるとされる。その絶体絶命の時に、ユダヤ人自身が待ち望んでいるメシア(救い主)が彼らを助けに来るというのが聖書の流れである。
そのメシアが、イエスなのかそうでないのか、その時なればわかる、というのが、ユダヤ人とクリスチャンの笑い話にもなっているわけである。
しかし、第三神殿が話題になっている今は、そういう話が実際におこりそうな今日このごろということである。