コロナ禍と治安厳戒態勢でのヨム・キプール(大贖罪日)2021.9.17

例年に近いヨム・キプール(大贖罪日)2021

イスラエルでは15日日没から16日日没まで、ヨム・キプール(大贖罪日)であった。ベネット首相の方針で、今年はロックダウンは回避され、例年に近いヨム・キプールとなった。

また、エルサレムでは、直前の中央バスステーションでのテロで、警察官2000人大勢の厳戒態勢がとられていたが、大きなテロは発生しなかった。

この日は、国民の休日で、イスラエル中がいったんリセットされるかのように、すべてが停止する。店舗は閉まり、バスもタクシーもなし。空港では、15日、21:30分の便を最後に、16日11:30pmまで、飛行機の発着は停止された。家庭では、テレビも停止。人々は、世俗派にいたるまで断食して、静かにこの日を過ごすこととなる。

www.timesofisrael.com/israel-shuts-down-for-yom-kippur-but-forces-on-high-alert/

例年のように、道路も走っている車はほとんどなく、各地で、子供たちが、からっぽになった道路で、自転車を乗り回した。以下は静まり返ったエルサレム市内の様子。

しかし、今年は、ラマット・ガンで、このガラガラの道路で、1台だけ走っていた車にはねられて、12歳少年が死亡するという悲惨な事故が発生した。

12歳少年死亡事故現場
写真:MDA 救急隊

死亡したバラック・コーリー君(12)は、1ヶ月後にはバルミツバ(成人式)を祝う予定であった。車を運転していたのは、エラン・アゾウリー(45)で、なんと、飲酒運転の疑いがあるとのこと。こういう例外の中で、まったくに不条理に命を奪われたコーリー君。家族は今どうしているのかと想像もつかない。

テルアビブでも、11歳の少年が、はねられて重症となった。北部ではバイクに乗っていた21歳が事故で死亡した。このヨム・キプールの間に救急隊2583回出動し、生まれた子供は8人だった。

www.timesofisrael.com/15-year-old-killed-11-year-old-seriously-injured-in-yom-kippur-road-accidents/

嘆きの壁では大群衆で祈り

こうした悲惨な事故はあったが、嘆きの壁では、8月11日から毎日続けられてきたスリホット(嘆きの壁で、神に罪を告白して許しを求める)が、9月11日から15日にピークを迎えた。

政府の指示は8000人まで許容ということであったが、最終的には1万人までで、嘆きの壁広場は文字通り人で埋め尽くされていた。以下はライブ配信。(2時間以上あるので、適宜クリックして全体をみていただくとよい)

16日、ヨム・キプールが終わり、断食が終わったあとの喜びの様子が以下の様子。

今年は、ヨム・キプールが終わるとその翌日が金曜日で、安息日入りとなるが、その後は断食から一転、20日夕刻から始まる仮庵の祭りの準備で、市場が賑わうことになる。

石のひとりごと:裁きと同時に恵の日

今年は、ヨム・キプールをほぼ通常通りに迎えることができたようである。しかし、この日に、事故死亡した人がいたことも、残念ながら、通常に戻ったということである。

それにしても、この日だけは、世俗的な人までが、断食して神の前に自分の罪を振り返り、悔い改めるというのは、世界でも全く類をみないことだろう。国をあげて、神の前に出ている、この姿こそ、イスラエルが、その神を証するために、選ばれた「選民」ということを表している。

聖書を土台とするユダヤ教、そこから発したキリスト教が、他の宗教と違っている点は、人間と神との間に、継続した関係性があるという点である。この視点からすると、聖書以外の一般の宗教の場合、人間が神に何かをお願いするという、どこか一方的であるか、継続した関係性はないように思う。

しかし、聖書によれば、神と人間は契約を結び、一生の間、それに基づいてその関係を維持するとされる。その間に、互いの理解を深めながら、やがてこの世での使命を終えたら、その“よく知りあっている”神の元へ行くというのが、基本的な考え方である。

この世での歩みを終えた後は、ユダヤ教もキリスト教も、生まれてから、一生をどのように過ごしたかを、神の前で走馬灯のように、全部見ると考えられている。与えられた命をどう使ったのかを見るということである。それによって、行き先が天国なのか、そうでないかが決まる。(キリスト教では、天国でない場合は、明確に地獄と言っている)

神の前に、なにも隠せるものはない。よいこともあれば、悪いことも全部あきらかにされる。時にこの神を忘れて、自分だけで生きていて、罪に苦しんだ日々もある。

自分の生き方に絶対の自信がある人はいない。それがわかっているので、ユダヤ人たちは、日々の中で、また毎年、ヨム・キプールの日に神の前に出るのである。それが大きな恵みで赦されるたびに、神との関係は深まっていく。

キリスト教徒も、自分は完璧でないこと、さらには、これからも失敗をするであろうということを認める。しかし、同時その罪を身代わりに罰をおってくれたイエスが身代わりに罰を負ってくれたと信じて、地獄ではなく、天国にいけると考えている。このために、イエスは「救い主」なのである。

今年、ユダヤ教のラビに教えられたことがある。一生を終えた後に、裁きがあることは厳しい現実である。しかし、この世での使命が終わった時に、神の前で、自分の一生を全部見るということ自体、神が、私たち一人一人を価値ある存在と見ているということだとラビ・フォールマン(Alephbeta)は教える。

どうでもいい存在なら、一生を記録することもなく、ともに振り返ることもないからである。大事な存在だからこそ、常に見守り、かつ、失敗してもその時まで、見捨てずにいたということなのである。だから、「裁き」は厳しいものだが、同時に、「恵」でもあるというのである。

キリストはその愛にとどまらず、私たちが受けるべき罰を、前もって片付けるということでさらに大きな愛を示している。

聖書は次のように言っている。「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」と語られたのです。(ヘブル書4:7)このイエスの大きな犠牲に見る愛を受け取りたいと思う人は、ぜひお近くの教会へ。

石堂ゆみ

石堂ゆみ

ジャーナリスト、元イスラエル政府公認記者、イスラエル政府公認ガイド、日本人初のヤド・ヴァシェム公式日本語ガイドとして活動しています。イスラエルと関わって30年。イスラエルのニュースを追いかけて20年。学校・企業・教会などで講演活動もしています。