イギリスのウイリアム王子が、ヨルダン訪問の後、26日から3日間、イスラエルを公式訪問した。イギリス王室メンバーがイスラエルを公式に訪問するのは史上初で、歴史的訪問となった。
イギリスは、これまでイスラエルに対してどちらかといえば冷たい態度を取り続けてきた。1947年のパレスチナ分割案には棄権票を投じ、イスラエルの独立を認めたのは1950年になってからである。
その後も紛争が続いているとして、イギリス王室はイスラエルへの訪問はしなかった。今回、次期国王であるウイリアム王子がイスラエルを公式訪問したということは、それなりに平和であることの象徴であると同時に、イスラエルの国としての格が国際社会の中で、公認定着したということも意味する。
ウイリアム王子の公式訪問は、アルゼンチンのサッカーチームが、BDS(イスラエル・ボイコット運動)の一環として、イスラエルでの試合をボイコットした直後であった。王子の公式訪問は世界のBDSムーブメントに大きなしっぺがえしになったともいえる。
イスラエルでは、初日、ネタニヤフ首相官邸、リブリン大統領官邸を訪問する他、ヤド・バシェム(ホロコースト記念館)を訪問。献花した他、ヒトラー政権下で、ユダヤ機関の子供救出作戦で、親と別れ、ドイツなどからイギリスに避難して生き残ったホロコースト生存者2人にも面会した。
ウイリアム王子からは曽祖母にあたるアリス妃は、ギリシャの王子と結婚した後、ナチスの占領を経験。生まれながらの聴覚障害者で、後には統合失調症でもあったが、ユダヤ人を匿い助けたことで、義なる異邦人として登録されている。
テルアビブでは、ビーチを歩いて市民たちとの交流の時もあった。今年ユールビジョンで優勝したネタ・バルジライさんにも会った。
3日目はエルサレムで、アリス王妃が葬られているオリーブ山のロシア正教の他、神殿の丘、嘆きの壁、聖墳墓教会と3宗教すべての聖地を訪問した。
その案内役はエルサレムのバルカット市長が務める予定であったが、イギリスはこれを辞退した。エルサレムをイスラエルの首都と公式に認めることにつながる可能性があったからである。
代わりに、イギリスは、ラマット・ガンにあるイギリス大使館での式典にバルカット市長を招いたが、バルカット市長は、エルサレムで会えないなら、どこででも会うべきでないとこれを辞退した。
<ラマラのアッバス議長訪問>
ウイリアム王子のイスラエル訪問は、イスラエル外交にとっては大きな前進だが、イギリスは、王子の訪問を政治的にならないよう、慎重であった。
バランスを崩さないよう、西岸地区ラマラでアッバス議長を訪問し、パレスチナ難民キャンプにも足を運んでいる。
アッバス議長は、ウイリアム王子に、パレスチナは、1967年以前の国境線で独立し、イスラエルと平和に共存することを望んでいると語り、独立したあかつきにはまた訪問していただきたいと述べている。
アッバス議長が、イギリスが最近UNRWAに支援金を送ったことに感謝すると、ウイリアム王子は、「私たちの”国”が、教育や支援活動で協力できて嬉しい」と語った。パレスチナを「国」と呼んだことは問題になりうるところであるが、今回、イスラエルはあえて、これをとりあげないことにした。
<イギリスの複雑な思惑>
日本の皇室と同様、イギリス王室の公式訪問を決めるのは王室自身ではなく、イギリス政府である。つまり、今のメイ政権が、ウイリアム王子をソフトな外交ツールとして遣わしたということである。
イギリスは、今EUからの離脱で、友好国を増やしたいのである。また、最先端のハイテク力を誇るイスラエルとの友好関係はイギリスにとっても重要である。
ネタニヤフ首相も認めているところだが、イスラエルのハイテク力が、今世界中の注目を集めており、軍事力以上に、イスラエル守る力になっているということである。
イスラエルは、好きではないが、手を結んでおくことは国益になると判断したイギリスの複雑な思惑が、ウイリアム王子訪問の背景にあるようである。
<石のひとりごと>
ヤド・バシェムを訪問したウイリアム王子の取材に行った。王子は、非常に背が高く、いわゆる人より首から上飛び出している状態。36歳なのに、はげ頭だが、王室らしく非常に上品で、顔立ちもとても美しい男性であった。
テルアビブでは、多くのとりまきがいたが、エルサレム、特にヤド・バシェムでは、王子を見に来る人も少なく、取材班も少なく、セキュリティもほぼなく、プレスカードの提示すら求められずという状況であった。
イスラエルに軍配が上がった形の訪問なので、来ているプレスもBBCとイスラエルメディアぐらいで、興味もいまいちであったか、純粋に、非政治的訪問だったので、テロリストもほとんど興味なしだったか。。。。若干、拍子抜けであった。