<イスラエル人アロンさんのバプテスマ>
エルサレム・アッセンブリーでは、30日(土)礼拝の中で、イスラエル生まれ、イスラエル育ちのユダヤ人、アロンさん(20代青年)のバプテスマ(洗礼)式が行われた。
イスラエルのユダヤ人の場合、イエスを信じると公に宣言することで社会的な弊害が出てくることから、通常、礼拝の中でバプテスマを行うことはない。特に家族が救われていない場合、平日に、教会スタッフだけで、行う場合がほとんどである。
しかし、今回、アロンさんは、300人近い会衆の前で、自分が罪人であったこと、イエスの十字架の死でその罪が赦され、あがなわれたこと、信じたことで、悪い習慣から解放されたこと。よみがえられた主と共にこれから歩んでいきたいということを明確に証して、バプテスマを受けた。
アロンさんは、宗教的なユダヤ教徒の家に生まれたが、家族は崩壊していたという。幼くして全寮制の学校に入れられた後、よくない仲間に入り、ついには刑務所に入ることとなった。
出所後、南部へ働きに出た先で、イエスを信じていた女性と親しくなった。それがきっかけとなり、新約聖書を読みはじめ、自分で救いを確信したとのこと。バプテスマの日の今日も、その女性がアロンさんにつきそっていた。
アロンさんの風貌は、典型的なイスラエルの若者である。長い髪、小さい穴があちこちに空いている古びたTシャツに短パン。おそらく今も課題はまだまだ多いのであろう。メノー牧師は、ここまで根気強く個人的にアロンさんを導いてきた兄弟(アロンさんからは父親ほどの年齢)に感謝を述べていた。
メノー牧師はいつも「バプテスマはゴールではなく、入り口だ」と教える。特にイスラエルのユダヤ人の場合、信仰を守り抜くことは簡単なことではない。
アロンさん自身も「私の信仰が継続するよう祈ってください」と言っていたが、この青年の信仰がまもられるように。彼の家族の救いと回復のためにも祈っていただければと思う。
*バプテスマ(洗礼)とは?
神の前に自分の罪を言い表し、罪に満ちた古い自分はキリストともに死に、新しく生まれ変わったことを告白するため、全身水につかってあがってくるという儀式。儀式自体が人を救うのではなく、内外への告白として行う。
これは、旧約聖書、言い換えれば、ユダヤ人が、神の前に出る際、特にエルサレムの神殿に行く前に行っていた儀式で、もとはユダヤ教の儀式であり、キリスト教が生み出した儀式ではない。
<救いは一つ>
アロンさんと私自身は、まったく違う人生を歩んでいる。私は多くの教育を受け、本当に恵まれた人生を送ってきた。アロンさんは、家族からも愛されず、刑務所に入るという険しい道を歩んだ。教育もどの程度受けることができたのかは不明だ。
それでも今は、同じときに同じ主の前で、同じ賛美を歌っている。まったく同じ方法で救われている。主の前では、どの人も同じなのである。そのことに今朝はやたら感動だった。
エルサレムの教会には、本当に地球上のあらゆる人種、ありとあらゆる過去と今を背負っている人々が集って、一緒に同じ主の前に立って賛美する。将来の天での賛美を思わされた。
<石のひとりごと:平穏な日常に思う>
イスラエルでは、南北国境で緊張が高まっているが、南部北部の町々以外は、いたって平和にやっている。
気温は、エルサレムでは、最高気温27-33度。ガリラヤ湖は39度、死海は42度まで上昇する。毎日ぎらぎらの夏だが、まだ入り口で、これからもっと暑くなっていくだろう。
子供達は先週から今週にかけて、小中高と夏休みに突入し、カイタナとよばれる夏休み子供クラブのようなものにかよいはじめた。子供たちをつれて海外旅行に出かける家族も少なくない。エルサレムも観光客であふれかえっている。
テルアビブでは、28日、毎年恒例の「ホワイトナイト」と呼ばれる夜を徹してのストリート・パーティが行われた。エルサレムでも27日から、旧市街でのライトショーが始まり、家族連れで賑わっている。テロへの懸念などどこふく風である。
経済も安定し、イスラエルは今、建国以来、おそらく最も平和を謳歌する時代を迎えているのではないだろうか。
しかし、南北国境をみれば、この平和が突如として崩れる可能性は疑う余地がない。聖書の次のことばが思いだされる。
・・・主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。人々が「平和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。
ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。
あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは夜や暗やみのものではありません。ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。(第一テサロニケ5:3-6)