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イスラエルのクリスマス
今日は23日。明日からクリスマスである。しかし、イスラエルはユダヤ人の国であり、ユダヤ人地域では、みごとにクリスマスの匂いは全くない。
たとえば、クリスマスがいつだったを知らない人もいる。クリスマスを祝うのは、アラブ人のクリスチャン地域だけである。
しかし、エルサレム市は、23日朝9時から、毎年恒例のもみの木の配布を行う。エルサレムにいるクリスチャンに敬意を表するためとしている。
このほか、観光省主催で、サンタクロースがイスラエル各地に出没するイベントも毎年行われる。今年はゴラン高原から。ガリラヤ各地の名所を回っている。おすすめ。
イスラエルのクリスチャンとクリスマス
イスラエル政府から、今年配布されたデータよると、あらゆる宗派を含め、イスラエルに在住するクリスチャンは18万2000人。総人口の1.9%にあたる。このうち、76.7%はアラブ人である。しかし、アラブ人社会の中では7%と、非常なマイノリティということである。
アラブ人クリスチャンの70.3%は、北部に在住している。その最大は、ナザレで、2万1400人(総人口7万8000人)、ハイファが1万6500人。エルサレムに住んでいるアラブ人クリスチャンは、1万2900人。
ナザレは、マリアが受胎告知を受けた町である。このため、ナザレでは、毎年、クリスマスに盛大なイベントを行う。ナザレはイスラエル領内であるため、近年、クリスマスには、多くのユダヤ人がナザレにクリスマスの雰囲気を味わいに来るようになっている。
今年も外国人観光客がいないので、ナザレの訪問客の90%は、イスラエルのユダヤ人だという。
www.timesofisrael.com/jewish-israelis-grounded-by-omicron-turn-to-nazareth-for-christmas-vacation/
以下は、エルサレム旧市街のクリスチャン地区の様子(最後は、ひと月ほど前にツリーの点火を行った西エルサレムのYMCAもみられる)こちらは、東エルサレムなので、さすがにユダヤ人の姿は少ないとみられる。
以下は、上記と同じ日のエルサレム旧市街クリスチャン地区の様子。クリスマスツリーの点火や、パレードも行われている。相当な密状態だが、ほとんどの人はマスクなしのようである。(12/14)
*イスラエル国内にいるクリスチャンについてのデータ
以下はイスラエル政府が発表したデータからのまとめである。クリスチャンのアラブ人は、全体的には、イスラムのアラブ人より経済も教育も恵まれていると言われている。
高校を卒業して、8年以内に大学に進むクリスチャンのアラブ人は、53.1%。それ以外のアラブ人の場合、ヘブル語の高校へ行った人は47.2%%が大学へ行くが、アラビア語アラブ系高校へ行った人は34%となっている。
もう一つの特徴は、アラブ人の女性たちが高学歴という点。大学の単位を取る人の中での女性の割合は、イスラエル全体の平均で53.2%だが、アラブ人クリスチャン女性の割合は、64.1%。アラブ人クリスチャンの世界では、男性より女性の方が高学歴の人が多いともいえる。
経済面では、アラブ人クリスチャンで社会福祉の支援を受けている人は3500人(0.2%)だが、それ以外のアラブ人では、0.32%。ユダヤ人でも0.28%なので、クリスチャンのアラブ人社会では貧しい人の割合が最も低いということになる。
まとめとして、イスラエルに住むアラブ人クリスチャンの84%は、人生に満足と答えている。このうち、24%は非常に満足と答えていた。
www.timesofisrael.com/israels-christian-community-is-growing-84-satisfied-with-life-here-report/
このデータからも、イスラエルが言いたいのは、イスラエルに住むクリスチャンは、多少の差別は否定できないにしても、中東諸国にみられるような危険な迫害はまったくなく、恵まれた生活も可能だということである。
これは間違いのないことなのではあるが、ただし、これはデータであり、現実には、難しい困難に直面しているアラブ人クリスチャンもいる。問題はそう簡単ではないこともまた覚えておきたいと思う。
石のひとりごと
早いもので2021年も終わる。今またオミクロン株で、世界の指導者たちは、頭を抱える事態になっている。しかし、それでも今年もクリスマスはやってきたのである。イスラエルでも、暗闇に光がともり、「希望」という言葉が使われているが、どうも「Ho・Ho・Ho」を連発しながらサンタがやってきた一色である。日本もしかり。
クリスマスは、イエス・キリストの誕生を覚える日である。しかし、そのクリスマスの直前にオミクロンが出回り、また行動制限をしなければならない。イエスが神なら、いったい何をしているのかと思う人がいてもおかしくはないだろう。
しかし、こういう時だからこそ・・・ではないだろうか。今、私たち、地球上の人類すべてが、例外なく同じ脅威の前にいる。今、天地を創造した神の前に、人間はだれもがまったく無力であることを思い出させてくださっているのではないか。イエス・キリストはその無力な人間を救うためにこの地上に来たからである。
ニューヨークの教会で語られていたことだが、キリストが、来て、私たちにためにしたことは、たとえばこんな感じである。ある時、車でスピード違反をしてしまった。警察に止められて、違反切符を渡された。
おそらく世の宗教では、そういう事態にならないように守ってくれると教えるかもしれない。もしくは、違反したが、この時の警察が特別に許してくれた。そういう幸運をもたらす神だと世の宗教は教えるかもしれない。
しかし、イエス・キリストは、たとえば、その警察官が、違反切符とともに、自分の財布から罰金全額の100ドルを一緒にわたしてくれたという感じだろうか・・・・・
自分の罰金は自分で払うべきだという人もいるかもしれない。しかし、聖書は、私たちのいのちの値はとうてい、自分では払えない額であると書いてある。
罪には、必ず罰がある。神が絶対のお方であればこそ、これが変わることはない。しかし、自分で払える額ではないという。ではだれが払ってくれるというのか。
自分が何も悪いことをしてないのに、その最大、最悪の恥、ありえないほどの不名誉である死刑を、だれかの代わりに受けることができる人間が果たしているだろうか。いるはずがない。
だから神は、神自身が、自分でその罰を引き受けたのである。それによって、その存在とその愛の大きさ深さ、真実を証明して示してみせたということである。
クリスマスで覚えることは、サンタクロースではなく、イエス・キリストが、私たちの理解からすれば、その最悪ともいえる結果を負うために、はじめからわかっているにもかかわらず、この世に来てくれたということである。
神が人となってくるとか、たった一人が世界の罪とその罰を負えるとかありえない、と頭のいい人は考える。まあ、常識的な大人であれば、これは夢物語にしか聞こえないということはよくわかる。
しかし、いつも思うが、聖書の神は、およそ我々の考えでは理解できないのであり、いつも意外な形で現れる。まさに、自分の悟り、自分の知恵だけでは、見落としてしまうお方なのである。
イスラエルのユダヤ人にとっては、イエス・キリストは、全くの他人事であろうが、どっこい、自分の人生と将来に非常に大きな宝であると筆者は思う。それはまた日本人にとっても同じである。このクリスマス、一人でも多くの方が、クリスマスとは一体何なのか、少しでも疑問に思い、心を傾けてくださればと思う。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネの福音書3:16)