コロナ禍でのティシャ・ベ・アブ 2020.7.30

ローマ市内にあるタイトス凱旋門:エルサレムを制覇して神殿にあったものを持ち帰っている 出展:Wikipedia

ティシャ・ベ・アブ

イスラエルでは、29日日没から、ユダヤ教のティシャベアブ(アブの月の9日)が始まった。この日、ユダヤ人たちは、586BCに、バビロンによって、エルサレムの第一神殿が、また70BCに第二神殿がローマ帝国によって破壊された日とされる。

(以下は、最後の神殿となった第二神殿崩壊の流れ:約45分)

またその後、中世の時代にスペインから追放されたことなど、ユダヤ人の歴史上の様々な苦難もこの日に起こったとユダヤ人は伝えている。

ティシャベアブは、聖書で定められた例祭ではないので、日常生活への制限はない。しかし、ユダヤ人たちの多くは、29日日没から30日日没まで断食し、嘆きの壁や、エルサレムが見える丘、また各地のシナゴーグに行く。そこで床に座り込んで、今もなお、神殿がないことを嘆いて、神の前に出る。

(ティシャベアブの夜の嘆きの壁の様子:1時間40分ぐらいあるので、飛ばしつつでどうぞ)

*第二神殿崩壊と新訳聖書

第二神殿の崩壊は、ちょうどイエス・キリストが、ローマ帝国によって十字架にかけられ、3日目によみがえるということがおこってから約70年後ということになる。イエスはこの日のことを預言して次のように言われた。

エルサレムに近くなったころ、都をみられたイエスは、その都のために泣いて言われた。「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。

やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日がやってくる。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。(ルカ19:41−44)

新約聖書によると、イエスは、契約違反になり神からいったん捨てられようとするイスラエル人たちの罪の罰を身代わりに受けるべく、エルサレムにやってきたのであった。しかし、イスラエルはイエスを受け入れず、十字架にかけてしまったわけである。そのために、イスラエルはいったん、約束の地から追われて、苦難の道をいくことになる。イエスはそれを予知して泣いたということである。

しかし、それがゆえに、今、ユダヤ人以外の異邦人と呼ばれる人が、先に罪の赦しをもたらすイエスを信じ、このイスラエルの神との契約に入ったというのが、キリスト教である。聖書は、イスラエルは完全に見捨てられたのではなく、イスラエルが、将来、定められた時に、また主に立ち返る時が来ることを約束、預言している。

ティシャベアブでユダヤ人が読む聖書箇所:悔い改めへの呼びかけと希望

ティシャ・ベ・アブの日、ユダヤ人が読むのは、聖書の中で、バビロン捕囚を嘆いたエレミヤの哀歌。また翌朝には、申命記4:25−40、エレミヤ8:13−9:23を読む。

ここには、イスラエルの民が、その神との契約を忘れたら、約束の地から追放されるが、もしその先で主に立ち返るなら、神があわれんで契約を思い出してくださるとの約束が書かれている。

あなたの苦しみにあって、これらすべてのことが後の日に、あなたに臨むなら、あなたは、あなたの神、主に立ち返り、御声に聞き従うのである。あなたの神、主は、あわれみ深い神であるから、あなたを捨てず、あなたを滅ぼさず、あなたの先祖たちに誓った契約を忘れない。(申命記4:30−31)

続いて午後には、出エジプト記32:11−14、34:1−10、イザヤ書55:6−56:8を読む。出エジプトの箇所は、モーセが、イスラエル人の罪のためのとりなしをして、神がその罰を思い直す箇所。またイザヤ書は、イスラエル人に主に立ち返るよう、呼びかけている箇所である。

主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。(イザヤ書55:6−9)

この日、ユダヤ人は、ただ嘆くだけにとどまらず、神の前に今の時代の罪も覚えて、その赦しを受け取り、神との関係を深めていく。悲しみの日であり、かつ喜びの日でもあるということである。

将来にわたって生き続けるユダヤ人:ナポレオン

のちの世にナポレオンがユダヤ人のゲットー近くを通りかかった際、ティシャベアブの嘆きの声が聞こえたという。聞くと、ユダヤ人が二つの神殿の崩壊を嘆いていると聞いた。それが1700年前に起こった出来事だと聞いて驚き、「そこまで過去のことを忘れない民にはかならず将来がある。」と言ったという。

神殿が破壊されたのは、弥生時代かそれ以前の出来事だが、それを今の時代の人々が嘆くということだが、読者の方々は、弥生時代の日本人の苦難を覚えて、嘆くことができるだろうか。

ユダヤ教の教えによると、ユダヤ人には歴史はないが記憶があるという。歴史は本になるが、記憶は人々の中に、生き続けることになるというのである。過去の失敗をけっしておおい隠さず、むしろ明らかにして悔い改め、新しい歩みに希望を託す。歴史としてではなく、記憶して将来に活かし続ける。これがユダヤ人なのである。

そうして、ナポレオンも予見した通り、2000年経ってのち、イスラエルは、戻ってきている。さらには、エルサレムも取り戻した。第三神殿が戻るのもそう遠くないと思われる。

石のひとりごと:コロナ禍における神からのメッセージ?

このコロナ禍にあって、ティシャベアブの祈りは、人々の心により意味深く響いているのではないだろうか。

このコロナ禍について考えてみると、最大に被害を受けているのは観光業である。しかし、コロナが来る直前までの数年間、イスラエルは空前の観光ブームであった。世界各国から来る観光客で、観光地もホテルも回らないほどの繁盛ぶりだったのである。

ところが今突然、この”飢饉”がやってきた。この流れを見ながら、ヨセフの時代、エジプトに7年間の豊作が来たあとに7年間の飢饉がやってきたことを思い出している。神は、この時、7年間の飢饉を乗り越えられるように、7年間の豊作を前もって用意してくださったのである。

考えてみれば、日本も観光業はインバウンドが押し寄せ、中国人観光客の爆買いの時代があっての今である。豊作の時代にどれほど蓄えができたものかは不明だが、すべては、大きな神の手の中にあると実感させられる。

この全地を創造したという聖書の神は今、イスラエルに、日本に、そして世界中に、いよいよ再臨、終末を前に、今、主に立ち返るよう、呼びかけておられるのではないか。

このコロナで混乱が広がる日々の中でのティシャ・ベ・アブ。全能のイスラエルの神と和解させていただいているキリスト者としては、自分たちのためだけでなく、イスラエルのために、また日本と世界のために、主の前にへりくだり、救いをとりなしていく使命が与えられている。

石堂ゆみ

ジャーナリスト、元イスラエル政府公認記者、イスラエル政府公認ガイド、日本人初のヤド・ヴァシェム公式日本語ガイドとして活動しています。イスラエルと関わって30年。イスラエルのニュースを追いかけて20年。学校・企業・教会などで講演活動もしています。