ネタニヤフ首相は、15日、全イスラエル市民に対し、特別給付金を配布する計画を発表した。
これは日本でも行われた10万円の特別給付金のようなものだが、その金額は、18歳以上が750シェケル(2万2000円)、子供1人の家族は2000シェケル(6万円)、子供2人の家族は2500シェケル(7万3000円)、子供3人の家族は3000シェケル(9万円)とのことであった。
このための予算は、60億シェケル(180億円)に登る。ネタニヤフ首相は、このプログラムについて、全国民誰一人として、給付を見捨てられることのないようにということのためだと説明した。
<批判殺到:貧富の差は無視できない>
ところが、この案には、批判が殺到した。イスラエル人11万4000人は、100万ドル以上(1億円)、1万6000人は、5−50万ドル(500万から5000万円)の財産を持っている。ネタニヤフ首相の案によれば、これらの人々も支給を受けることになるわけである。
イスラエル銀行アミール・ヤアロン総裁、経済省内部からも批判が出た。また、自営業者への支援は始まったものの、金額が低すぎるとして批判が出ている中での発表であったために、自営業者からも大きな反発が出た。
カン・ニュースによると、最終的には、青白党ガンツ氏が、支援金は、貧困層に絞るべきだと主張したため、来週の閣議でも論議されることはないようだとのこと。支給がどうなるかは不明となった。
<市民の助け合い:本当に必要な人に給付金を>
この発表がなされると、チャンネル13の深夜番組ハツィノールが、給付金を、本当に必要な人に振り分けようと、クラウドファンディングで、献金を募った。すると、政府から給付を一切受けられない人からの電話が殺到したという。子供が飢えているとか、電気を止められたままだとか、悲惨すぎる声だったと、テレビ曲担当者のガイ・レレルさんは報告している。
献金の方は、金曜朝までで5633人、277万2112シェケル(約9000万円)が、給付金の献金を申し出たとのこと。また、テレビ局が、15歳の少女が、もはや夜はろうそくをつけるしかないと訴えているとツイッターにアップしていたのを受けて、支援を申し出たところ、電力会社から、それをカバーするとの申し出があったという。
*失業率の現状:これから厳しくなる失業率
イスラエル国内の失業率は、常に流動しているので、実際どうなっているかは、なかなかつかみにくいという。ハローワークのような就労斡旋所を通じて仕事を探している人でみると、85万3843人が仕事を探している。このうち、57万5163人は休業状態だが、無給という人である。
このため、中央統計局の失業率となると、今年上半期の失業率は5.2%である。しかし無給休暇の人を入れると10%以上となり、上記のように、仕事を実際に探している人で換算すると21%から22%となるのである。
失業率の動向だが、世界と同様、本格的な失業が始まるのはこれからだという。イスラエル銀行が、中央統計局の数字から予測したところによると、25−26歳の失業率は今年6.2%だが、2021年は7.4%と予測されている。
しかし、無給休暇も入れた実質で計算すれば、次の3ヶ月で、25%以上、その次の3ヶ月で、10−15%になる(回復みこみ?)と予測されている。
ハイテク産業では、ほぼ25%の会社が、新規雇用を中止。45%は延期と答えている。しかし、テレワークにして能率が上がったと答えた会社もあるとのこと。新たにデリバリー業務を加えた会社が18.3%、オンラインショップを始めた会社が14%あったとのこと。
<石のひとりごと>
市民全員への特別給付金。たしかに、額もたいしたことないし、もらったところで、どんな効果がでるかは、かなり不明である。イスラエルでは、やはりボツになりそうだ。
一方、日本ではこれを実施した。しかもイスラエルよりはるかに大胆な額で、給付が全く必要ない、裕福な人にまで行きわたり、一方で、住所のない、本当に支援が必要な、ホームレスの人々にどれぐらいいきわたったのかは不明である。
日本では、大きくこれに反対する人はいなかったように思うが、日本人の私たちは、ほとんどが、自分さえもらえるなら、それでよかったのか。国への圧迫になると考えつつも、結局はもらった人がほとんどであっただろう。
私たちは、自分に直接関係ないことで、国の将来を慮って、政治に対して声を上げるということがほとんどなくなっている。政府も、国民に何を言われようが、最終的には、政府の思う通りをするというというのが国風になってしまっていて、批判されても大して悪びれてないようである。
しかし、明治維新の時代の日本はそうではなかった。大きな内戦なしに、殿様政治から、民主政治に移行できたのは、世界でも日本だけである。これからの日本。どうなっていくのか。主がこの国を導いてくださるように。また、通年だけにとらわれず、自分の存在や、力の小ささにとらわれず、自分のなすべきことを知り、働いていくことができるようにと思う。