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イラン情勢、またイランとアメリカの関係が緊張度を増す中、27日、ラピード外相が、イタリアのローマで、ブリンケン米国務長官と階段。新政権で、初となる高官による対談を行った。主な内容は、イラン情勢で、パレスチナ情勢なども話し合われたという。
ラピード外相:アメリカとプロフェッショナルな対話を
イスラエルは、アメリカがイランとの核合意になんとか復帰しようとしていることについて、反対の立場である。この方法ではイランの核開発、軍事開発をとどめることが不可能と考えているからである。新ベネット・ラピード政権もこの点に変わりはない。
しかし、ラピード外相は、“これまでのように”、一方的にメディアを通じて反対を伝えるのではなく、プロフェッショナルに、直接対話していきたいと、ブリンケン国務長官に伝えた。
ブリンケン国務長官は、アメリカとイスラエルが時に、方策について違った意見をもつことがあるが、目標は同じだと述べた。
パレスチナ問題について、バイデン政権は、明白に2国家2民族の立場であり、イスラエルとパレスチナどちらにも、希望に満ちた将来のために、協力すると述べている。
ブリンケン国務長官は、アブラハム合意で、湾岸諸国とイスラエルが協力することを支持すると述べたが、それがパレスチナ問題を黙認するわけではないと語った。
バーレーン外相・イタリア外相とも会談
ラピード外相は、この後、バーレーンのアル・ザヤニ外相とも会談。新政権代表として始めてとなる湾岸諸国との対談となった。ラピード外相は、この後、UAEのアブダビで、イスラエル大使館、ドバイにイスラエル領事館の開設式に出席することになっている。
また、イタリアのデ・マイオ外相とも面会した。
ヤイル・ラピード外相とは
外相や一時は防衛相なども兼任し、ほぼワンマン状態であったネタニヤフ政権と違い、今の新政権は、ラピード・ベネット政権と言われる時もあるように、ベネット氏とラピード氏の2人が首相を交代する約束による政権である。
まベネット首相が国会に6議席しか持たないのに対し、ラピード外相は17議席持っているが、ベネット氏が連立にいなければ、政権を取れないという弱みもあるので、2人はよい協力体制で動いているようにもみえる。
www.timesofisrael.com/lapid-to-blinken-mistakes-were-made-in-us-israel-relationship-well-fix-them/
ラピード氏とはどんな人物かを紹介する。
1)高校ドロップアウトからのテレビ人気キャスターへ
ラピード外相は1963年生まれの58歳。父親はジャーナリストで、法務相も勤めた政治家である。両親は、ユーゴスラビアとルーマニア系。曾祖母がサルビアからアウシュビッツで死亡している。
ラピード外相は、テルアビブで生まれ育ったが、高校でドロップアウトして、きちんと卒業していない。その後イスラエル軍に従軍。1982年のレバノン戦争中に、喘息を発症し、最前線を退いて、軍直属のメディア班に配属となった。その後、1991年からは、マアリブ、イディオト・アハロノトなど大手新聞社で、コラムニストを務め、1989年から2010年まで、様々な分野での書籍を執筆。テレビの脚本も手がけた。
1994年からテレビでのキャリアを開始する。ニュース番組は2008年からチャンネル(現在の12)の金曜特番(プライムタイム)で、解説をするようになった。なかなかの人気であった。
最初の妻とは離婚して、今はレヒさんと再婚し、2人の子供がいる。また前妻との間にも一人いる。
2)政治家としてのあゆみ
2012年、ラピード外相は、テレビを辞め、政治家としての歩みを始めた。主にテルアビブ住民に多い、中流世帯、世俗派の声を代弁する中道政党。未来がある党を立ち上げた。非課税、兵役免除の超正統派住民への優遇政策に世俗派たちが反発し始めたころである。
2013年の総選挙で、未来がある党は19議席を獲得。リクードのネタニヤフ前首相の連立政権に入り、経済相を勤めた。しかし、ネタニヤフ氏との摩擦が続き、2014年には、経済相を辞めた。
その後、議席は半分になったが、2019年には、市民に人気が高かったガンツ氏と組んで、青白党を立ち上げた。しかし、最終的には、ガンツ氏が、寝返ってネタニヤフ前首相の連立に入ったため決別。再び、未来がある党に戻ったのであった。
ところがその後、市民は、左派でありながら右派のネタニヤフ政権に寝返ったガンツ氏に落胆し、支持率が急落。ガンツ防衛相の青白党は国会にぎりぎり残るという悲惨な状態になった。
その分、中道左派という方針を貫いたラピードの人気が高まり、今17議席を占める第二党になっているということである。