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ネタニヤフ首相の難しすぎる決断
ネタニヤフ首相は、今究極のストレスの下にいると考えられる。どこへ行っても、自国民の反対デモが待っている。そうした中、国にとっての重大事項になるような究極の難しい決断をしなければならない。
サウジアラビアとの国交はイスラエル国家にとって非常に有益であると、ネタニヤフ首相自身は考えているのだが、その条件がかぎりなく不可能なもので、強引にこれを受け入れた場合、それこそ、国民全部を敵に回す事態になる。
1)右派リクード(ネタニヤフ首相政党)議員12人が誓願書提出:バイデン大統領と会談2時間前
サウジアラビアが国交締結の条件は、イスラエルにとっては、非常に大きな痛みを伴う大決断になると言われている。まず、パレスチナ人の国を、今すぐに建てるとはいわないまでも、国は2つに分けるという方向性は認めると国際的にも宣言しなければならない。
アッバス議長は、その第一ステップとして、西岸地区のCゾーン(イスラエルが管轄するエリアでユダヤ人入植者たちが住んでいる)からの撤退を挙げている。
これについて、今のイスラエルの右派連立政権は、Cゾーンからのイスラエルの撤退など夢にも考えておらず、むしろ、その範囲を拡大する政策を進めている状態にある。
バイデン大統領との会談の2時間前に、元国会解散のエリ・エデルスタイン氏を含むリクード党の議員12人が署名する書簡がネタニヤフ首相に届けられた。内容は、平和をもたらす時にのみ平和に同意する。祖国を守ることへの譲歩はありえない。」と強いことばで、パレスチナ問題にいかなる譲歩もしないよう、要求するものであった。
事項で述べるが、現政権になってから9ヶ月の間に、西岸地区の情勢は悪化とエスカレートをたどっており、今となっては、確かに、アッバス議長への不用意な譲歩は、イスラエル人の安全だけでなく、国の存在にも大きなリスクになっていくと考えられる。
2)代表野党ラピード氏がサウジアラビアの平和利用ウラン濃縮を認めるべきではないと公言
サウジアラビアのもう一つの条件が、平和利用とするウランの濃縮を認めるという点である。中道左派で野党代表のラピード氏は、木曜、サウジアラビアとの和平は歓迎するとしながらも、ウランの濃縮を認めることは、中東でに核軍拡競争を招くことになると警告。それを進めようとするネタニヤフ首相の動きを「無謀で無責任だ」と非難した。
右派左派どちらもが、なんらかの反対を出しているのであり、どちらを選んでもリスクがあり、何を決めても嫌われるというのが、今のネタニヤフ首相の立場である。
石のひとりごと:王の気力はどこから来る?
だれが正しいのかはわからない。国民の意見に耳を傾けるだけでは、イスラエルという国を守ることはできないのだが、ネタニヤフ首相は果たして、国にとって一番よい道を見分けることができるのか。
これほどの決断に迫られる中、国民の一部はアメリカにまで来てネタニヤフ首相を非難する声を挙げている。出発の際には、「もう帰ってこなくてもいい」との叫びまで出たのである。「もう勝手にしろ」と放り出してもおかしくないだろう。
ネタニヤフ首相が、何よりもイスラエルを大事に守ろうとしてきた政治家であることは、否定できないのだが、新政権になってからのネタニヤフ首相の様子は、これまでとは違うと言われている。確かに目にするどい勢いがないように感じている。先月、心臓ペースメーカーを埋め込んだばかりの73歳のどこまでの気力があるのかとも思う。
今ネタニヤフ首相が立っている場所を思う時、これほどに、孤独な場所はないのではないかと思う。嫌われても、理解されなくても、イスラエルという国にとっての最善の道を選ばなければならない。聖書に次のような話がある。
かつて、ダビデがまだ王になる前、一時ペリシテの王のところに身を寄せていた時代があった。ペリシテ人たちがイスラエルと戦おうとして出ていくその戦いから離れたダビデが、滞在の地ツィケラグに戻ると、町は焼き尽くされ、家族も連れ去られていた。ダビデの仲間たちは、ダビデの不備だとして、ダビデを殺そうとした。
それでもダビデはうつにならず、落ち込まなかった。「しかし、ダビデは彼の神、主によって奮い立った。」と書かれている。ダビデは、神にどうしたらいいのかを尋ね、その指示の通りに行い、家族たち財産のすべてを取り戻すことができた。(第一サムエル30章)
聖書のいう知恵(主ご自身)に聴くということこそが、イスラエルの王にとって最善の知恵なのである。
聖書はまた次のように書いている。「もしあなたが苦難の日に気落ちしたら、あなたの力は弱い。」(箴言24:10)
これは原語ヘブル語で読むと、神からの力を引き出さないなら、あなたの力は弱いということで、しかもそれは受け身で書かれている。神によってその力を受け取らなければ弱いままだということである。
今ネタニヤフ首相が必要としていることは、ダビデのように、自分のためでなく、国のために、イスラエルの神の前に出て奮い立つ力、気力とその知恵を受け取ることである。ネタニヤフ首相を覚えて、とりなされたし。