テルアビブ・エリトリア難民間対立暴動で警察官50人負傷:強硬右派政権に追い風になる? 2023.9.4

Anti-Eritrean government activists (left) clash with supporters (right) of the Eritrean government in Tel Aviv.(AP Photo: Ohad Zwigenberg)

テルアビブでエリトリア人同士が衝突・暴動

9月2日(土)テルアビブ南部でアフリカのエリトリア難民たちの間で、親エリトリア政府勢と、反エリトリア政府勢が、激しい暴力的な衝突、カオスとなり、150人以上(約30人は、イスラエル人警察官)が負傷した。警察官1人を含む15人が重傷となっている。

暴動の発端は、テルアビブにあるエリトリア大使館で2日に計画されていた、の独立30周年イベントである。イスラエル国内には、政府を支援するエリトリア難民もいるということである。

しかし、今のエリトリア政府から逃れて、イスラエルで難民生活を強いられているエリトリア人にとっては、受け入れ難いイベントである。

反エリトリア政府勢力からは、数週間前から警察に暴動が懸念されるとして、イベントを中止するよう、要請が出されたいたが、警察はこれをとりあわなかったという。

以下のニュース映像では、どちらがどちらかはわからないが、エリトリア人どうしが、青Tシャツと、赤Tシャツで争ている。その間で、イスラエルの警察隊がこれを止めようと、動いているのがわかる。反エリトリア政府側のエリトリア人が流暢なヘブライ語で訴えを叫んでいるところに、行き場のない人々の悲哀が感じられる。

しかし、イスラエルにとっては、いわば、イスラエル国内で、イスラエルには、直接関係のないことによる暴動が発生し、イスラエルの警察官も重傷を負ったということである。ネタニヤフ首相は、「赤線を超えている。」とし、これまでに関係したエリトリア人50人を逮捕した。警察を管轄する、極右ベングビル国内安全保障相は、まだまだ逮捕をすすめている(裁判なし)と語っている。

ネタニヤフ首相は、緊急の閣僚会議を開き、暴動に参加した人々の即時強制送還の意向をみせている。また、エリトリア人の難民認定(イスラエルに留まる権利を与える)は、これまでからも本当に最小限であったが、今、その認定を受けた人々の労働許可をも取り消すなど、この分野での基本法改正にまで乗り出すことで合意した。

www.timesofisrael.com/a-real-threat-pm-backs-widespread-arrests-eyes-deportations-in-migrant-crackdown/

テルアビブ南部で長年放置状態だったアフリカ難民

そもそも、なぜ、イスラエルのテルアビブにエリトリア難民がいるのか。

エリトリアは、紅海に面し、北スーダンとエチオピア、ジブチと国境を接する国で、人口は約620万人(42%はイスラム教徒)の小さな国である。

エリトリアは、エチオピアとの30年にのぼる戦争の末、1991年に左派で共産主義、中国とも関係のあるサイアス・アフェウェルキ大統領が導いて勝利し、今から30年前の1993年、正式に独立が認められた。イスラエルは、戦争中は、エチオピア側を支援していたのではあるが、同年、国交を開始し、互いの大使館を交換設立したのであった。

しかし、独立以来、ずっとアフェウエルキ大統領(現在77・30年前から大統領)が率いているエリトリア政府は、共産主義、独裁主義である。市民は18-55歳まで、奴隷に近い状態で農業や兵役につかされているという。人権は、北朝鮮と、世界最悪の地位を争っている。

このため、国外へ脱出する人が相次ぎ、50―60万人は、ヨーロッパなどへも難民となって国外へ脱出していった。しかし、その後、エチオピア国内は政治的に落ち着いたとして、エリトリア難民の難民申請は、もはや受け入れないという国がほとんどになっている。

エリトリアから難民が出た頃、内戦状態のあるスーダンからも難民が多数でていた時でもあった。スーダンとエリトリアから、徒歩でエジプトへと逃げた人もいたが、エジプトは、彼らを弾圧した。このため、当時はまだ防護壁や侵入防止対策がなされていなかったイスラエル南部の砂漠地帯から、両国の難民が次々にイスラエル領内へ入っていった。

2007年から2012年ぐらいまでの間に、イスラエル領内に入ったアフリカ難民は6万人を超えた。イスラエル国内では、危機感が高まり、2012年に、砂漠地帯にも防護壁をつくって、アフリカ難民がこれ以上、入らないようにしたため、それ以後、アフリカからの難民は入っていない。

それから、難民は数年、砂漠地域の収容所にいたが、政府はやがて、テルアビブ南部地域を指定し、そこに住まわせた。労働ビザも出さず、20年近くも放置した状態においたが、難民たちは劣悪な状態でなんとか生活を続けたのであるが、街には、ホームレスがあふれ、当然、あらゆる犯罪が増え、テルアビブ南部住民にとっても大きな問題になっていた。

その後、エリトリア、スーダンでも一時国内が安定したとして、イスラエルは帰国希望者を募った。資金援助までして帰国希望者を募った時もあり、その人数はだいぶ減った。現在、イスラエルで難民申請をしているアフリカ難民は約3万人で、このうち1万7000人がエリトリア人である。

司法制度改革で戦う強硬右派政権に追い風?

今回の暴動は、司法制度改革をめぐる問題に直面する強硬右派政権には、追い風となる可能性がある。左派系に傾きがちな最高裁は、これまで政府が出してきた、送還などの難民対策のための法案を却下してきた。この暴動はその結果ともいえなくもない。

そうなると、最高裁が政府の法案を却下できる司法制度には問題があるということにもつながっていくということである。

www.timesofisrael.com/eritreans-in-israel-long-neglected-divided-amongst-themselves-and-dividing-society/

石のひとりごと

2000年代初頭、筆者は時々この地域、テルアビブ南部に出かけた。そこでホームレスとなり、売春して生き延びてる女性たちを助けるクリスチャンによる保護施設を手伝うためであった。

そうした女性は、アフリカ難民の黒人だけでなく、ロシアやウクライナから来ていた白人の女性も多かった。無論、麻薬も横行していた。

最寄りの電車駅を降りるとすぐに、霊的な暗闇は明らかであった。しかし、スーダン人やエリトリア人の中にはクリスチャンもいて、日曜には集まって礼拝しているグループもあった。

イギリス人のクリスチャン女性が、自身はまだ独身であるのに、2人のエリトリア人の子供たちを引き取り、ハイファに移動して、そこで2人を育てていた。いろいろな法律をかいくぐり、小学校にまで行かせていたことを思い出す。

難民になるということは、本当に厳しい。日本という国が与えられていて、これほど長く平和であることは、決して当たり前のことではないと実感させられる。

石堂ゆみ

石堂ゆみ

ジャーナリスト、元イスラエル政府公認記者、イスラエル政府公認ガイド、日本人初のヤド・ヴァシェム公式日本語ガイドとして活動しています。イスラエルと関わって30年。イスラエルのニュースを追いかけて20年。学校・企業・教会などで講演活動もしています。