ベエルシェバの戦い・バルフォア宣言から100年 2017.11.2

イスラエルでは、今年、建国の大きなきっかけとなったイギリス政府の公式文書「バルフォア宣言」が出されてから今年11月2日、ちょうど100年を迎える。

これに先立ち、イギリスがパレスチナ地方の委任統治をはじめる大きな転機となったベエルシェバの戦いから100年を記念する国家行事が10月31日、ベエルシェバにて執り行われた。

なぜイスラエルがこれを祝うのかといえば、結果的にはこの戦いが、パレスチナ地方のトルコによる支配を終わらせ、イギリスが支配権をとったことで、ユダヤ人の移民が進み、建国への大きな足がかりになっていったからである。

ベエルシェバの戦いは、世界にとって、またイスラエルにとってのターニングポイントになったのである。

ベエルシェバの戦いは、イギリスを中心とする連合軍と、ドイツ、オスマントルコとの戦いであった。ここで連合軍として戦ったのが、アンザックとよばれるオーストラリア・ニュージーランドの将兵である。このため、ベエルシェバには、大きな十字架を掲げたアンザック将兵たちの広大な墓地がある。

31日には、この墓地で、ネタニヤフ首相、オーストラリアのターンブル首相、ニュージーランドのレディ総督が出席する中、国家記念行事が盛大に執り行われた。

www.bbc.com/news/world-australia-41826602

式典では、ネタニヤフ首相たちが参列する中、クリスチャンであった兵士たちのために様々な賛美歌が流れ、詩篇23篇が朗読された。一方で、オーストラリアのアボリジニが伝統の楽器を奏でたり、ニュージーランドのマオリ族の祈りがささげられるなど、若干霊的戦いを思わせる場面もあった。

100年前を彷彿とさせるアンザックの騎馬隊が再現され、人々はこの歴史的なできごとと、そこで命を落とした兵士たちに思いをはせていた。

<第一次世界大戦勃発からベエルシェバの戦い>

1914年、オーストリアの皇太子が暗殺されるというサラエボ事件が発生。これを機に、ドイツ、オスマントルコと、連合軍(イギリス、フランス、ロシア)が戦争を始めた。これが人類初の世界大戦である。

この時代、パレスチナは、オスマントルコの支配下にあったが、1882年から始まった、ヨーロッパからのユダヤ人のアリヤ(移住)の波は2度目となり、テルアビブの開拓がはじめられたころだった。エルサレムは、まだ城壁の中だけにしか人がいない時代である。

この当時、オスマントルコが徐々に勢力を失いはじめていたため、イギリスは、アラブ人をあおってオスマントルコに反乱させることを考えた。そうして1915年、イギリスは、メッカの太守でベドウィンのフセイン・イブン・アリーに協力を求め、トルコ崩壊時はアラブの帝国を設立することを約束する。これがマクマホン・フセイン協定である。

その翌年1916年、イギリスは、フランスと中東をどう分割するかについて話しあった。これをサイクス・ピコ協定という。この時期、石油の重要性が注目され始めたころだった。ロシアは、ボルシェビキ(ユダヤ人)が主導する内戦が勃発したことから、世界戦争から身をひかざるをえなくなっていた。

この流れの中、まだ国を持たないユダヤ人シオニストたちが、国家設立に向けて動き出すのである。当時はまだイギリスにつくのか、オスマントルコにつくのかで判断が難しい時代だった。トランペリドールと、ジャボティンスキーは、イギリスに道を選び、イギリス軍の中にユダヤ人部隊を立ち上げるよう奔走する。

ユダヤ人は1915年のガリポリの戦い(イギリス、フランスなど連合軍がトルコのガリポリ半島へ上陸しようとして失敗した作戦)において、ろばによる輸送隊として貢献したことから、正式なユダヤ人部隊がイギリス軍の中に立ち上がった。

その翌年2017年、イギリスは、北アフリカからパレスチナ地方へとオスマントルコをおいつめたが、ガザをどうしても攻め落とすことができなかった。トルコはドイツとともに、ガザとベエルシェバを結ぶラインを固辞しており、イギリス率いる連合軍はそれより北へは進めない状態が続いた。

ここで登場してくるのがアレンビー将軍である。アレンビー将軍は、連合軍はガザへ攻め込むと見せかけ、ベエルシェバと奇襲。続いてガザも攻め落とし、そのわずか6週間後の12月、ついにエルサレムを陥落させることになったのであった。

このベエルシェバでの戦いを戦ったのは、アンザックとよばれるオーストラリア軍、ニュージーランド軍であった。アンザックは、騎馬隊で、塹壕から銃撃してくるドイツ軍、トルコ軍を前に、正面から突撃し、その頭上を飛び越えてベルシェバに突入。町を奪回したという。

この戦いで戦死したオーストラリア人兵士は173人、ニュージーランド人兵士は31人。ベエルシェバには、この戦いの面影を残す場所が多数残されている他、ここで戦死したトルコ軍兵士を記念する石碑も残されている。

www.kkl-jnf.org/tourism-and-recreation/israeli-heritage-sites/anzac-trail/sites/anzac-sites-beersheba/

<バルフォア宣言>

ベエルシェバでの勝利の数日後の11月2日、イギリスのロイド・ジョージ内閣のバルフォア外相が、シオニズム運動を支えていた第2代ロスチャイルド卿に、ユダヤ人のホームランドを設立することに全力を尽くすと書いた書簡が送られた。これがバルフォア宣言である。

この書簡は、先の2つの協定とは違い、イギリス政府の公式書簡であった。このため、戦後、パレスチナ地方でイギリスによる委任統治が始まると、イギリスは、ユダヤ人移民がパレスチナ地方(ヨルダン川より西に入ってくるのを許したのであった。

一方、アラブ側はフセイン・マクマホンの約束が守られないことに立腹する。このため、イギリスは、フランス領シリアから追い出されたフセインの息子ファイサルをイラクの国王にすえ、フセインのもう一人の息子アブドラをヨルダン側東岸んトランスヨルダンに据えた。チャーチル英首相はこれでフセイン・マクマホン書簡の約束は果たせたと考えたのであった。

いずれにしても、このバルフォア宣言は、ユダヤ人の祖国イスラエル再建への大きな一歩になったということである。

このバルフォア宣言が出されてから今年100年になる。ネタニヤフ首相は11月2日にイギリスで行われる記念式典に出席するため、1日、イギリスへ向かった。イスラエル国内での記念式典は11月7日の予定。

BBCは、バルフォア宣言は、イスラエルにとっては祝いかもしれないが、同時にパレスチナ人にとっては、解決不能な中東問題の原因になったと伝えている。

www.bbc.com/news/uk-41819451

<イスラエルとクリスチャンシオニストの関係>

イスラエルが建国するまでには、祈りだけでなく、実際的な面においても様々な形でクリスチャンが大きな影響を及ぼしてきた。バルフォア宣言は、通常、アセトンを発見して、第一次世界大戦中でのイギリスの勝利に貢献したユダヤ人化学者ワイツマンの功績とされている。

しかし、それだけでなく、当時の英ロイド政権に多数のクリスチャンシオニストがいたことも注目される事実である。

イスラエル人歴史学者アビ・ベン・ハー氏によると、当時の首相ロイド・ジョージ、その外相で、バルフォア宣言を書いたアーサー・バルフォアもクリスチャン・シオニストであった。

この分野を専門とするシャロム・ゴールドマン博士も、バルフォア宣言の背後には、聖書に基づくプロテスタントたちのクリスチャンシオニズムの考えが大きな影響を及ぼしたと強調する。

このことから、イギリスのクリスチャンの多くは、この時代のイギリスは、近代のクロス王(バビロン捕囚以来、ペルシャにいたユダヤ人にイスラエルへ帰るよう指示した王)だったと考えている。バルフォア宣言100周年を記念し、イギリスではクリスチャンたちによるイベントも企画されている。

クリスチャンシオニズムはユダヤ人のシオニズムより100年も遡るという。もっとも古い例は、デンマークのホルガー・パウリ(1644-1714)のケース。パウリは、突然、ユダヤ人の王、メシアであると自称し、ユダヤ人をキリスト教に改宗させ、イスラエルの地に連れていく召しを受けたと主張した。

パウリはちらし配りをしていたほか、少人数のユダヤ人を集めて家庭集会などをしていたようだが、最終的には、デンマークの政府からこれを差し止められた。パウリは、いわばクリスチャンシオニストの走りのようなもので、ユダヤ人の歴史には、「宗教ファナティック(極端)」と記録されている。

近年においては、福音派クリスチャンがクリスチャンシオニストとして、イスラエルをサポートしている。これについて、今のイスラエルのユダヤ人たちは、「ユダヤ人がイエスを信じることで再臨があると考えているからだ。」と懐疑的になっている。しかし、それも少しづつ変わってきているようでもある。

バルフォア宣言100周年にあたり、エルサレムポストがクリスチャンシオニストたちに関する記事をだしていたが、それによると、今の福音派クリスチャンは、パウリほどユダヤ人改宗に熱心ではない。中には、純粋にイスラエルの再建をただただよろこんでいる者もいるとも書いている。

そのまま喜んでいいのかどうなのか複雑なところだが・・・

イスラエル政府も、これからの時代、クリスチャンしか見方はいないと判断。先日もクリスチャンメディアサミットを政府みずから開催し、イスラエルへの支持を求めたところである。イスラエルとクリスチャンの関係が今、新たな時代に入りつつある空気を感じ始めている。

www.jpost.com/Opinion/Christian-Zionism-and-the-Balfour-Declaration-508034

*イスラエル建国当時にもいた現地アラブ人のクリスチャンシオニスト

筆者の友人にナザレに住むアラブ人クリスチャンの家庭に生まれた女性がいる。彼女の父カルメル・マターさんは、すでに召されたが、生きていれば100歳になる。プロテスタントの牧師で、非常に福音的でどこへ行っても福音をのべつたえるような人だった。

マター牧師は、昔からナザレに住むアラブ人だが、聖書を読んでいて、やがてユダヤ人が帰ってきてイスラエルを再建されると確信していたという。そのため、ほかの祈りは忘れても、イスラエルの再建のための祈りは欠かしたことがなかった。そんなマター牧師を、アラブ人の友人は疎んじていたという。

しかしやがてユダヤ人の軍隊がナザレにもやってくる。マター牧師とその妻は、預言が成就したと大きなよろこびに満たされ、なんの抵抗もなく白旗をあげてユダヤ人たちを迎え入れた。マター牧師の話を受け入れなかったアラブ人の友人は、イスラエルを受け入れることができず、今もヨルダンに行ったままだという。

地元アラブ人は、通常はユダヤ人に土地を奪われ、そこから追い出されたという歴史があるので、通常は、クリスチャンであってもイスラエルに苦い思いを残す場合が多い。しかし、ただ聖書ゆえにイスラエルの再建のために祈り続け、その実現を見て、心から喜んだアラブ人クリスチャンがいたとは驚きだった。

マター牧師のように、白旗をあげたナザレのアラブ人たちは、イスラエル建国後もそのままナザレに住むことができた。

しかし、残念なことに、今に至るまでの間に、経済や治安の悪さからクリスチャンはどんどんナザレから出て行きつつある。かつてはクリスチャンが多数派であったナザレだが、今はムスリムが多数派のイスラムの町になっている。しかし、少数派ながら福音派の教会もあるという。

石堂ゆみ

ジャーナリスト、元イスラエル政府公認記者、イスラエル政府公認ガイド、日本人初のヤド・ヴァシェム公式日本語ガイドとして活動しています。イスラエルと関わって30年。イスラエルのニュースを追いかけて20年。学校・企業・教会などで講演活動もしています。

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