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厳しさ極まる中で今年もヨム・キプール
イスラエルと世界のユダヤ人は、10月1日(水)日没(日本時間深夜以降)から、現在、ヨム・キプールに入っている。国をあげて、交通が止まり、商店も閉まって道路は空っぽになる。
エルサレムのメア・シャリームでは、超正統派ユダヤ教徒たちが、神殿がない中、通りで、鶏を贖いの捧げ物にする習慣を行っていた。(以下のサイトに写真あり)
www.upi.com/Top_News/World/Photos/Israelis-perform-Kapparot-ritual-before-Yom-Kippur/15854/
嘆きの壁、各地シナゴーグでは、日没から、集会が行われた。以下は、その頃のエルサレムの様子。
この日ばかりは、世俗派の人々も25時間、断食している。メシアニックのエルサレム・アッセンブリーでは、礼拝堂を解放し、だれでも祈りに来られるようにしている。
国を上げて、聖書が命じる通りに、その神、主の前に、それぞれの罪を認識して悔い改める1日である。こんな国はどこにあるだろうか。
しかし、イスラエルの置かれている状況は、いつにも増して厳しくなっている。ガザでの戦争は続いている。同時に、トランプ大統領のガザ停戦案にハマスがどう出てくるかによって、停戦になるのか、その逆の大攻撃になるのかという瀬戸際にある。超不安定な中でのヨム・キプールである。
さらに、今年は、ヨム・キプールに入ったまさにその時間に、全世界のインテリが大勢乗り合わせているフロティーラが、イスラエルが封鎖しているガザ海域侵入を試みることで、世界的な反イスラエル感情をつきつけられた形となった。
先を見て不安になりやすい日本人にはどうにも耐え難い状況だろう。しかし、イスラエル人たちは、この状況の中でも、例年と変わらず、その神である主に目を向けている。ユダヤ教が、自分たちに祝福を与えてもらうためだけの宗教ではないことは明らかである。
神戸のシナゴーグに行くと、日本にいる、また日本を訪問中のイスラエル人たちが60人ほど来ており、断食前の食事をしたあと、いっせいにヨム・キプールの祈りに入っていた。
ヨム・キプール専用の書物にそって、カンターがメロディに合わせて導く中、会衆も一緒に声を出して祈りを捧げる。その内容たるや、何ページもにもわたって、延々と細かく罪が描き並べられている。
それらを認めるがごとくに読み進め、その後に、主こそが全能の神であるとの告白に続いていく。特に挙げられている聖書か所は、詩篇29である。
主は、大洪水のときに御座に着かれた。まことに、主は、とこしえに王として御座に着いておられる。
主は、ご自身の民に力をお与えになる。主は、平安をもって、ご自身の民を祝福される。(詩篇29:10-11)
*海外旅行を好むイスラエル人たち

イスラエル人たちは、国が戦争をしていても、チャンスがあれば海外に行っている。イスラエル人は海外で、異文化に触れることを好む人々である。
特に兵役が終わった若者たちは、長期間の海外バックパック旅行に出かける。これが、イスラエル文化なのである。
異文化に触れることで、自分のアイデンティティを確立することになり、祖国イスラエルにおける自分の立ち位置や使命も発見することになる。
同時に、今は、戦争で敵対者から憎まれる経験をする中、そこから一時的にも離れたいという欲求もあるという。
イスラエルは、今現在も戦争中だが、一時的にも兵役を終えた若者は、日本にも多く来ている。昨日の神戸のシナゴーグでのヨム・キプールにも来ていた。
日本に1週間前に来たという若い女性から、どこかおすすめの場所はある?と聞かれた。京都や奈良にも行くと言っていた。日本は安全であり、シェケルに対して、日本円は安いので、今は訪問どころなのである。
www.ynetnews.com/opinions-analysis/article/rkf11xhk2le
ヨナ書に再確認する主の義と主の恵み
ユダヤ人たちは、ヨム・キプールには、聖書の中のヨナ書を読むことになっている。
ヨナは、主の預言者だったが、イスラエルの敵であるニネベ(アッシリアの都市、現在のイラク北部)に行って、悔い改めを呼びかけるようにとの主の指示に従わず、それから逃げようとして、タルシシュ行きの船に乗った。
ところが、その船が遭難し、ヨナは海へ投げ入れら得て、大きな魚に飲み込まれ、3日3晩、その腹の中で悔い改めることになる。吐き出されたあと、ヨナはニネベに行って使命を果たした。これにより、ニネベの人々は、全員が悔い改めることで、裁きを免れることになる。
ヨナは憎い敵ニネベが救われたのを見て、神に立腹する。そんなヨナに、神は、日陰になる木を与え、それがすぐ枯れることで、ヨナに何かを教えようとされた。
なぜこれをヨム・キプールに読むのだろうか。いろいろな説や教えがあるが、このストーリーには、神の義と恵みが教えられている。
ヨナは、イスラエルを苦しめてきた敵であるニネベが、悔い改めて罰をのがれことに、神の義を見失い、生きることに絶望した。イスラエルを苦しめた悪者が罰せられない、そんな世界に生きていたくないと思ったのである。
しかし、それでも神から逃れることはできず、救いは神にからのみ来ることを体験し、最終的には、ニネベに行き、ニネベはわざわいを逃れることになる。しかし、その様子を見て、ヨナはやはり納得できず、神に文句を言った。
それに対し、神はヨナの不機嫌を直そうと、とうごまの木を与えたが、その木はあっという間に枯れることになる。全能の神、主がなぜそうされたのか納得がいかないヨナは、やはり死にたいというのである。
ヨナ書のユダヤ教の教えの中に、主の義は絶対だが、同時にその恵みも実在するというものがある。
注目の点は、ヨナの警告を聞いて、ニネベが悔い改めただけでなく、悪の道から立ち返ったと書かれている点である。
絶対の義である主の前に、自分たちの罪を認めただけでなく、二度と同じことをしないと神に宣言する。そこに、主は、将来の新たな可能性を見出して、以後、その歩みを支援してくださるのである。これが恵みだというのである。
キリスト教では、イエスの十字架と復活による贖いにより、永遠の命を受け取り、天に行く。これが恵であると信じる。しかし、私たちも救われた時が、ゴールなのではなく、そこがスタートラインとなって、この世にいる間、本来の使命を果たせるようになる。それを支えてくださるのが主の恵でもあるということなのである。
また今回、ヨナ書から思わされたのは、ユダヤ人と異邦人の関係である。ヨナ書では、ヨナよりも先に、船の乗組員だった異邦人たちが主に立ち返った。その後、ニネベの異邦人が主に立ち返るのである。
ヨナがそう意図して用いられたのではないのにそうなっている。このように、ユダヤ人自身が意図したわけではないのに、彼らの失敗や苦難を通して、ユダヤ人であったイエスの苦難を通して、異邦人が先に、主を知り、主との関係を回復しているということなのである。
ヨナが怒っているように、ユダヤ人にとっては、納得のいかないことのオンパレードだろう。ユダヤ人はこのように、不条理ともいえるような苦しみを通して、異邦人に救いの道を示す役割を担っていると思う。
イスラエルは、その苦難の歩みを通して、それでも最後には、見捨てられることがない様子から聖書の神の存在を証してくれている。それが、選びの民の今の使命であり、だからこそ、その報いとして、最後に国単位で救われることが約束されている唯一の国だと思う。
このヨナ書を、まだイエスを信じる救いを受けとっていない、ユダヤ人たちが、ヨム・キプールの日に毎年読んでいるということも非常に興味深いと思う。
ユダヤ人たちは、将来、この日にメシアが来て、最後の裁きをする。その時にイスラエルは大きな恵みを受けると信じているのである。
これは現時点では、キリスト教的な理解であることを強調しつつ・・・私たちは、その日、ユダヤ人たちの目が開かれて、彼らに対するイエスの贖いが明らかになり、イエスを拒否し続けた罪を悔い改めて、国全体が救われることになると信じている。
ヨム・キプールでヨナ書を読んでいるユダヤ人を思うと、その日の祝福が見えるようだった。
