10月7日夕刻、イスラエルでは10月7日の犠牲者を覚える式典が行われたが、各地で小規模な式典が行われた他、大きなものでは国家式典と、人質家族による式典とに分かれた。
分かれた理由は、10月7日にハマスの侵攻を許してしまった政府による式典に、家族が反発を覚えたからである。
家族たちは、この戦争の責任を負っているだけでなく、人質を取り戻す交渉より、戦闘を優先しているネタニヤフ首相が、犠牲者を覚える式典の指揮をとるべきではないと訴えていた。
しかし、政府も式典をあきらめなかったため、家族たちは、テルアビブで独自の式典を行い、その後、政府は、事前に録画したものを放送する形となった。
1)家族による式典:4万人のところ治安状況から2000人出席
家族による式典は、テルアビブのヤルコン広場で行われた。当初4万人が参加予定だったが、戦争が悪化していることから、集会の上限が2000人とされたことから、出席は2000人だった。
内容は、家族たちが、当時の証言をし、もう二度と帰ってこない息子たちや家族を思い、悲しむ様子が綴られている。
ハマスが来た時、自分たちもシェルターに入って、ナイフを持って、どん底の恐怖を経験した家族たちは、「10月7日、犠牲者たちを助けに来る軍はいなかった。我々を守るものは、我々だけだった。これこそ見捨てられたということだ」と訴えた。
また1年経った今も、サイレンが鳴る中で集まっているのであり、国の団結のために集まっているのではないと訴えた。
政府はこの失敗を認めるべきであり、この大失敗を調査する国家調査委員会を立ち上げるべきだと訴えた。
国家調査委員会設立について、ネタニヤフ首相は戦時下の今、するべきではないと考えている。基本的に、ネタニヤフ首相は今もまだ、10月7日の大惨事を阻止できなかった事に対する責任は認めていない。
しかし、7日朝、ガラント防衛相と、スモトリッチ経済相(宗教シオニスト党)は、政府の失敗を認めて謝罪を表明した。
2)政府による式典(事前録画)
家族による式典が終わったころ、事前録画された政府の式典が、放送された。犠牲者家族の証言から始まってはいるが、ネタニヤフ首相とヘルツォグ大統領が、戦争における成果もあげ、希望的な内容で終わっていた。
ネタニヤフ首相は、人質を取り戻し、人々が自宅に戻れるようにすると、戦いを継続する理由とともに、必ず勝利すると訴えていた。
ヘルツォグ大統領は、想像を絶する状況の中で、献身的に人々を救出しようとした英雄的な人々に着目。不屈のイスラエル人精神だと賞賛し、「我々は立ち上がる。涙で蒔いた種を喜びとともに刈り取るだろう」としめくくった。
3)ノバ音楽フェスティバル会場
最も被害が大きかったノバ音楽フェスティバル会場では、上記式典の前に、大勢の人々が来て、犠牲者たちの名前をあげて覚える集会が行われていた。