コロナが終わったと思ったら、こんな大混乱に陥ってしまった。ワクチン作戦の成功で、世界はイスラエルに良い印象を持ったかもしれない中で、再びこの事態である。
イスラエルはとことん、思い上がってはいけないと教えられているのだろうかと、心がどうにも沈んでしまう。
しかし、私は、イスラエル人とともに生活した年数があるので、イスラエルが、エルサレムをユダヤ人だけで占領しようとしているとか、イスラム教徒の礼拝を妨害するとか、そういうことは、少なくとも社会的には、ありえない考えであると確信している。
無論、イスラエルの中にも、右派、特に極右の考えを持っている人がおり、それらが、今回の混乱に関わっていたことも否定はできない。イスラエルの中に、アラブ人への多少の差別があることも否定はしない。しかし、イスラエルという国全体が、そういう差別的な国ではないということは断言できる。
イスラエルの政治は、ユダヤ人の国で、かつ、民主主義国家というところに重きを置いている。少なくとも政治の世界では、ユダヤ教に偏りすぎず、世俗派的な要素を維持しながらなので、国の多様性を認め、特に他人の宗教には、ユダヤ人に押し付けさえしないのならば、極めて寛大な措置をとっていると思う。
世界三大宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)の人々が平和にエルサレムを訪問できるようになったのは、イスラエルが、エルサレムを支配するようになってからなのである。
パレスチナ人の叫びを聞いているだけでは、このイスラエルの姿が、間違って認識されてしまうだろう。実際、国際社会の目は、イスラエルに厳しい。なぜに、イスラエルはいつもいつも、こういう流れになってしまうのか。
今回、ユダヤ人の店舗の窓ガラスを割られる様子や、ユダヤ人への攻撃を「正しいこと」と思い込んでいるパレスチナ人たちの中にある憎しみには、普通でないもの、何やら得体のしれない恐ろしさすら感じる。その怒りのパワーはこれまでにないほど強いように思う。
また今回も神殿の丘という究極の場所が、発火点になっていることを思うと、背後に霊的な何かが動いているということだろう。
しかし、エルサレムで、長年、祈りの家の働きを続け、イスラエルと中東全体のとりなしを続けているリック・ライディングさん(スカット・ハレル)は、今回の衝突も、神殿の丘から発生しているが、まだ終わりの時ではないと感じている。今はまだ、多くの若者を救われる前に滅ぼそうとする力が、それらしき紛争にしていると感じているとのことであった。
ライディングさんは、この波に飲み込まれているパレスチナの若者たちのための祈りが必要であると教えている。引用するのは、エゼキエル25:15-17である。
それによると、パレスチナ人たちの敵意がいつまでも消えず、ひどい復讐をするということ。またそれが彼ら自身への主の復讐を招くことになるということ。しかし同時にそれで、彼らが、主を知るようになるということである。
ライディングさんが今、勧める祈りは、パレスチナ人の中で、今、怒りの思いに支配されきっていない人があれば、そこから解放され、怒りの支配から守られるように。
また怒りの思いに完全に支配されてしまっている人には、パウロのように、その思いの中に主が現れてくださり、考えを反転させてくださるように。嘘と意味のない煽動に支配から解放されるようにとりなすことである。
ライディングさんのところでは、昨年、元ヒズボラ戦士であった若者が、主に出会うことで、イスラエル人への憎しみと殺戮から解放されたとの証があったとのことであった。
しかし、パレスチナ人だけでなく、ユダヤ人の過激右派たちのためにも、自分や国を滅ぼすことになる暴力に出ないように、とりなしが必要だろう。
またニュースを見ていると、堕落したとパレスチナ人自身が感じている指導者たちの元で、パレスチナ人の若者たちがいかに苦しい、希望を持ちにくい、実生活の現実に直面しているかも思わされる。特にガザのハマスに振り回されている一般市民の思いはどこにあるのだろうか。
考えれば考えるほどに、解決の糸口は見えない。コロナと同様、人間の無力を思わされるばかりである。ただ主の前にへりくだり、この破壊と暴力の大波が過ぎていくようにと祈る。