世界がどんどんカオス状態に向かっている中、聖書はなんと言っているのか。ニューヨークのTimes Square Churchのティム・ディレナ牧師が、まさに今、詩篇46篇に目をとめる時だと語った。
指揮者のために。コラの子たちによる。アラモテに合わせて。歌
神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても。セラ
川がある。その流れは、いと高き方の聖なる住まい、神の都を喜ばせる。神はそのまなかにいまし、その都はゆるがない。神は夜明け前にこれを助けられる。
国々は立ち騒ぎ、諸方の王国は揺らいだ。神が御声を発せられると、地は溶けた。万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである。セラ
来て、主のみわざを見よ。主は地に荒廃をもたらされた。主は地の果てまでも戦いをやめさせ、弓をへし折り、槍を断ち切り、戦車を火で焼かれた。
「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる。」万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである。セラ
世界はどんどん混乱し、ますます先が見えない時代に向かっている。こうした時代に、この天地創造の神である主につながっているということがいかに重要かということを教える詩篇である。
この詩篇は、アッシリアに攻められたヒゼキヤ王に関係すると言われている。紀元前8世紀末の、ヒゼキヤ王とイスラエルの民たちは、エルサレムの城壁の中にいて、アッシリアの軍に包囲された。
城壁の中には水がなかったことから、ヒゼキヤ王は、城壁の外にあったギホンの泉から、トンネルを作って、水を城壁の中に引き込み、シロアムの池に水を溜め込んだ。*この池の遺跡は今も残っている。
外は的に取り囲まれて、絶体絶命状態だが、中には水がある、それが途切れることはないという状況である。この川こそが、神である主を表しており、決してなくならない水源、すべてのことの源であるということである。
この神が私たちの中に居られる限り、私たちは、外で何があろうが、決して揺るがない。どれほど絶望的にみえても見捨てられることはない。いかに不可能な状況にみえても、神に不可能はない。それは全く予想外に反転することが可能なのである。先のプリムのメッセージと同じである。
この川が象徴するのは、ユダヤ人とその国イスラエルが信じている聖書の神、主である。
私たちは、異邦人であり、この神を証するために選ばれたイスラエルに属する者ではない。しかし、イスラエルで、その民のメシアとして来られたイエス・キリストが、罪を身代わりに負って罰を受けてくれたことを信じることで、異邦人でもこの神につながることができる。詩篇46につながる者になるのである。
イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。
しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ4:13-14)
しかし、この神の名を背負っているイスラエルが、世界中から迫害されているのと同様、これからの時代、クリスチャンであることも難しくなってくることを覚悟しなければならない。
しかし、いかんせん、それと同時に、この神につながっておくが、不可欠な時代になっていると、ディレナ牧師は、ウィリアム・バークレー(90年代の聖書学者)の言葉を引用して強く語っている。
なぜ不可欠なのか。それは、たとえ、私たちにすべてはわからなくても、理解できなくても、この神は、天地創造の主であり、今もすべを支配しており、全ての上に立っておられるというのが、絶対の現実だからである。苦難こそが実はこの神に近づくためでもあるのかもしれない。
しかし注目すべきは、詩篇46の最後で、神が「ヤコブの神」と名乗っている点である。アブラハムの神とか、イスラエルの神ではなく、ヤコブの神なのである。
ヤコブは、兄を騙す者、嘘つき、自分のことだけを考える者であり、罪、また足りなさを象徴する名前と言える。そのヤコブが、神に食らいついて祝福を願ったことで、「イスラエル」という名前をもらったのである。
ヤコブという名前には、主の奇跡とあわれみがこめられている。主は詩篇46篇に、そのヤコブの神と、ご自分を表現しているのである。
今のイスラエルは、約2000年に消滅した国である。それが、歳月を経て、元の位置に元の名前で再建された。こんなことは、神がそうしない限りありえないことである。
しかし、再建したイスラエルは、常に敵に囲まれ、今も戦っている。非難されることも多く、完全とはほど遠い。そのツケは払わされてはいるが、この「ヤコブの神」と自己表現している神は、そんなことは分かった上で、彼らとともに立っているのである。
その足りなさが理由で、彼らを見捨てることはないということが、この「ヤコブの神」という表現に現れている。
これは救われている私たちにとって大きな確信につながることである。どんな事態になっても、内にこの限界のない川である主がいて下さる限り、見捨てられることはない。理由のない苦難もないということである。
あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。
むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。(第一コリント10:13)
イスラエルが今、私たちの目の前に存在し、戦いの日々ながら存在し続けている。その様子をみれば、聖書の神が現実であることは否定できないことである。
どうしようもない苦難の日々がせまって来つつある。その日が来る前に、まだこの神につながっていない人は、ぜひイエスを信じてつながっていてほしい。確信もってお勧めするところである。
余談になるが、Times Square Churchの礼拝やその他の活動には、オンラインで、全世界からの参加者がある。この礼拝では、UAEからの参加もあった。
オンラインのおかげで、戦争などで、行けなくなっている国の人にも福音を伝えられる時代になっている。
ディレナ牧師は、対人の教会を重視しているが、こんな時代なので、オンライン宣教をする人が、どんどん起こされていけばと語っていた。
