最近、トム・ハンクス主演の映画、「プライベート・ライアン」スティーブン・スピルバーグ監督(1998年公開)を、観る機会があった。
映画は、1944年6月6日のノルマンディ上陸作戦の激戦のシーンから始まる。25年も前の映画とは思えないほどのハイレベルな技術で、戦場の中にいるような気分にさせられる。そのまま30分近く戦闘シーンでは、兵士が次々に銃弾や爆弾に当たって倒れていく。手足を失う者、叫び声。休むことなく走れという声。銃声と爆弾の音。
ビーチは、死体と血で壮絶な景色になっていく。見ているだけでも疲れ果ててしまう。実際の戦場はどれほどのものかと思うと、ウクライナやロシアの戦場にいる兵士たちを思わずにはいられなかった。戦争というものの実際をわずかながら、実感させられた気がした。今更ながら、戦争は2度と起こってはならないと改めて感じさせらた。
この映画は、その壮絶な戦いの後、息子4人のうち、3人が戦死した母親のために、4人目の息子を、どこかにいる戦場から連れ出すという使命を、トム・ハンクス演じるミラー大尉が受けるところから始まる。
ミラー大尉は、この使命のために、8人の兵士たちを集めて共に、ライアン一人を探しに、内陸へと向かっていく。その使命の中で、何度も危ない戦闘を強いられ、2人が死んでいった。兵士たちはライアン1人を迎えにいくために、死ぬことに疑問を覚え始める。ライアンはそれほど値打ちのある人間なのか? これに耐えられず、一人は去っていく。
その後、ようやく、ライアン(マット・ディーモン)を探し当てると、ライアンは、仲間を置いて、今の持ち場を離れることはできないという。ライアンを連れて帰ることができない。では途中で死んだ2人の兵士はなんのために死んだのか?
悩んだミラー大尉は、その地にとどまり、ライアンたちの部隊の作戦を助けて、勝利したら、その時はライアンを連れて帰れる。加えて米兵としての本来の使命も達成できると考え、共に来た兵士たちとそこにとどまることにしたのであった。
しかし、ナチスが攻めてくると、壮絶な戦闘となり、一緒に来た兵士たちは、次々に死んでいく。最終的には、ミラー大尉も撃たれて死ぬことになる。死の直前、ミラー大尉は、ライアンに、「むだにするな。しっかり生きろ」と言い残して死んでいくのである。ライアンは、その後、多くの家族と子孫に恵まれて、いるシーンが前後に出てくるのである。
ライアン一人を迎えにいくために、多くの兵士が死んだが、最後までその使命をやり通したことで、ライアンは助かり、母の元に帰ることができた。アメリカ人一人が助かり、その子孫がその後も続いていくことになった。
ミラー大尉たちは、まさに、使命を達成したのであり、死んだ兵士たちも十分価値あることのために死んだのだということを思わされた。
私たちは、皆使命をもって、この世界に生まれてきている。それが何かをみつけ、途中で多少、疑問に思ってもやり遂げる。そうした時に、生きている間は、自分ではわからなかったかもしれない何かを達成しているのかもしれない。
それは、たとえば、聖書に出てくる、死んでよみがえって、イエスのそばに座っていただけで、だれよりも神の本質を証したラザロのような使命かもしれない。ラザロ自身はなにもしていないのに、立派に使命を果たしたのである。
要は、イエスキリストによる罪の贖いを通して、天地創造の神、私自身をも創造した、この神に立ち返ること。この神こそが、私たちひとりひとりのこの世での使命を、一番よく知っているということである。
そして、時にそれは、私たち自身も、生きている間は、知らないことであるかもしれないということである。あせらず、この神とともに生きていればよいということである。