石のひとりごと:ブーゲンビリアに学ぶ 2024.7.5

夏になると、イスラエルでは、あちこちに鮮やかな色のブーゲンビリアが咲いている。最近、花屋さんで、小さな鉢に植えられたブーゲンビリアが売っていたので、懐かしさのあまり、速攻で買ってしまった。

かわいく、鮮やかな濃いピンク色の葉がいっぱいだった。家の中では日光があたらないので、日がさすところに動かしまわって、日にあててやろうとした。すぐ乾くので水も乾かないように気をつけた。

ところが、ピンク色の葉たちは1週間もしない間に全部、枯れ落ちてしまった。本来なら、その葉の間に白い花を咲かせるのだが、それを見る前に、全部枯れ落ちてしまったのである。それで調べると、なんと、ブーゲンビリアは可愛がりすぎると花を咲かせないとのこと。

まず日にあてようと動かし回ったのがNG。さらに水を枯らさないようにしたのもNG。ブーゲンビリアは、できるだけ動かさず、放っておくのがいいという。また水は、葉っぱが垂れ下がるほどに括弧するのをまって、その時にたっぷり与えるようにする。

ブーゲンビリアは、厳しい状況になった時に、これはやばいとばかりに、子孫を残そうと、花をつけるらしいのである。だから甘やかしてはならないという。

それでその通りにしてみたら、なんと!再び濃いピンクの葉がでてきて、しばらくすると、真ん中に小さな白い花が咲いた。

苦難を通ってこそ花を咲かせるとは、なんともイスラエルらしい花ではないかと感動した。

イスラエルは、この天地を創造した神、主を証する国である。その証の方法は、彼らの素晴らしさではなく、彼らの失敗や苦しみを通しての証がほとんどである。

悲しむものは幸いである。慰められるから。(マタイ5:4)

アメリカのディレナ牧師の話から引用すると、ここに約束されているのは、悲しみをもたらしている状況の改善ではなく、慰められるということ。

私たちは罪人にすぎず、失敗して悲しむことが多いのだが、その時にも、あきれはてて見捨てることはない、主は共にいてくださる。それが幸いだといっているのである。

そのことを、最大限に証明しているのが、エルサレムで、私たちの罪と失敗のツケを負って、十字架にかかって死んでくれ、その後、死からよみがえって、それを帳消しにしてくれたイエスである。

また2000年前に消え去ったイスラエルという国が、流浪と迫害の末、ホロコーストという大虐殺を通ってなお、同じ場所に再現している。多くの戦争を通って、今も存在しているという否定し得ない事実である。

イスラエルは失敗ばかり。どういうわけか、世界にも嫌われる傾向にあるが、主は見捨てていない。そのうちに主を見上げて、立ち上がる時が用意されている。

あまやかされず、多くの苦難を乗り越えることで、主の素晴らしさを証する。まるで、ブーゲンビリアのように、苦難を通りながら、美しい花をさかせるのが、イスラエルである。

だから私たちもこの国を、どんな時にも支えることをやめないようにしたい。

「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」とあなたがたの神は仰せられる。「エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。

その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けたと。」(イザヤ書40:1)

石堂ゆみ

ジャーナリスト、元イスラエル政府公認記者、イスラエル政府公認ガイド、日本人初のヤド・ヴァシェム公式日本語ガイドとして活動しています。イスラエルと関わって30年。イスラエルのニュースを追いかけて20年。学校・企業・教会などで講演活動もしています。