東エルサレムのシェイカ・ジャラには、3世紀ごろの大祭司シモン・ハツァディクの墓があり、昔からユダヤ人が聖地の一つとして、守っていた地域出あった。
しかし、この地域は、独立戦争後、ヨルダンの支配域となったため、ユダヤ人たちは、一時ここから引き上げることとなった。その後、ヨルダンと国連によって、この地域にパレスチナ難民たちが送り込まれたのであった。
ところが、その約20年後の1967年、イスラエルが、この地域を奪回する。すると、1948年以前に住んでいたユダヤ人たちが、この地は、法的には自分たちの土地であるとして、法的な戦いを開始した。
この間、シェイカ・ジャラのパレスチナ人たちは、イスラエルを支配を認めなかったので、インフラ整備や安全対策など、エルサレム市の都市計画には従わず、勝手に増築するなどしていたのであった。当然、イスラエルへの税金は払っていなかった。
またこの間、この地域には、過激なユダヤ人も住むようになり、時折、紛争が発生してきた地域である。こうして、長年を経て、シェイカー・ジャラに住むパレスチナ人70家族は、法的にも家を出て行くべきとの動きになっている。
このため、この地に住むパレスチナ人たちは、先週から、毎夜デモ活動を行うようになっていた。
こうした中、今回、ネタニヤフ首相が議席数を増やす目的で、国会に入ることになった極右のベン・グヴィール議員が、5日、シェイカー・ジャラのパレスチナ人居住区と道をはさんで真前に、臨時オフィスを置くとして、屋外にバナーとテーブルを設置し、シェイカ・ジャラのユダヤ人指導者とともに座ったのであった。「早く出ていけ」と言わんばかりであった。
この日は、ラマダンの断食明けで、パレスチナ人たちも屋外で食事をする日でもあったので、やがて両者は、怒鳴り合い、椅子を投げつけるなどの乱闘騒ぎとなった。
仲裁に駆けつけたイスラエルの治安部隊は、パレスチナ人15人を逮捕した。しかし、ユダヤ人は1人も逮捕していなかった。しかし、ネタニヤフ首相は、ベン・グブール氏に一刻も早くテーブルを片付けるよう厳しい指示を出し、グブール氏は、翌6日には、撤退したとのことである。
こうした極右の動きが、パレスチナの過激派たちを刺激し、イスラエルと戦う口実を与えているようでもある。この一件も、またネタニヤフ首相指示を落とす一件になったかもしれない。
www.timesofisrael.com/far-right-mk-vacates-sheikh-jarrah-office-in-return-for-more-policing-in-area/
*東エルサレムの複雑な土地問題
1948年の第一次中東戦争(独立戦争)で、イスラエルは独立することとなった。しかし、肝心のエルサレムを奪回することはできず、東西に分離されることとなった。旧市街を含む今の東エルサレムは、ヨルダンが支配した。
それから約20年後の1967年の第三次中東戦争(六日戦争)で、イスラエルは東エルサレムを奪回する。これにより、神殿の丘と東エルサレムは、イスラエルが支配するところとなったが、国際法的には、まだ正式に認められていないため、国際社会からは、「占領」という言葉が使われている。
イスラエルとしては、東西統一したエルサレムを首都としているので、東エルサレムのパレスチナ人はイスラエル住民と同様の権利を約束しているし、路面電車も東西をまたいで運行している。
現在、東エルサレムには、パレスチナ人35万8000人と、ユダヤ人も22万5000人が住んでいる。しかし両者が同じ地区に共存しているのではなく、ほぼくっきりと別々の地域に別れて住んでいる状態である。こうした中、ユダヤ人は、当然イスラエル国籍だが、パレスチナ人は、ヨルダンでもなく、イスラエルでもない“エルサレム住民”というステータスで生きている。
この複雑な状況の中で、シェイカ・ジャラの一部の住民のように、エルサレム市に従わないまま今に至っている家族が200家族あるということである。これまでからも、単数で立退が求められたことはあるが、今回のように70家族の立退きはこれまでにない規模になる。
www.timesofisrael.com/un-pending-israeli-evictions-in-east-jerusalem-could-be-a-war-crime/
国連は、立退きをさせることは国際法に違反すると言っている。しかし、エルサレム市も、この人々のために様々な支援策をしてきたことも以前、取材したことがある。より安全な都市計画も無視して、危ないところに家を建てたりというケースもあると聞いている。
決して極右に賛同するわけではないが、ことはそう単純ではないということのように思う。