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国交70年を迎えたが、近世における日本とユダヤ人、イスラエルはどんなつきあいだったのか。簡略にちょっと調べてみた。筆者は専門家ではないし、まだまだ深い背景、様々な解釈もあるようだが、とりあえず全体像の把握のために。。
日本とイスラエル(ユダヤ人)の関係:戦前
1) 「シオンの議定書」で逆にユダヤ人に近づいた?日本:河豚計画は頓挫
第一次世界大戦後の1922年、当時日本は、中華民国の張作霖の背後(奉天軍閥)で、南満州を実効支配する状態にあった。日本は、日露戦争の時に、アメリカのユダヤ人実業家ヤコブ・シフ氏の膨大な支援を受けて勝利した経験がある。このためか、常にユダヤ人には、常に注目していたようである。
安江仙弘陸軍大佐は、第一次世界大戦中のシベリア出兵の時に、「シオンの議定書(ユダヤ人陰謀説)」に出会い、帰国後に拡散している。しかし、これを読んで、反ユダヤ主義に至ったというよりは、逆にその影響力に注目したようである。
その後、安江大佐は、日本政府の公認?の中、欧州だけでなく、パレスチナ地方も視察し、1928年には、ハイム・ワイツマン(後の大統領)や、ベン・グリオン(後のイスラエル初代首相)にも面会している。日本からは、ユダヤ人問題専門家と目されるようになった。
同じ頃、海軍では犬塚惟重大佐が、フランスでの駐留
経験などを経て、ユダヤ問題専門家と目されていた。犬塚大佐も「シオンの議定書」の拡散に関わっている。
こうした中、日本は中国での支配力を強めていく。1929年に、奉天軍閥は南京国民政府とされ、その2年後の1931年、満州事変が勃発し、1932年には、日本が支配する満州国が成立した。このころ、欧州では、1933年にナチス政権が発足する。
情勢が厳しくなる中、ユダヤ難民が欧州から出るようになると、かろうじてビザなしで入れる満州方面にも来るようになった。ユダヤ専門家の安江大佐と犬塚大佐は、満州国にユダヤ人を受け入れることは、「八紘一宇」(多くの民族が一つになって生きるという満州国のビジョン)の理念にもかなうものであると考えた。
また、ユダヤ人の経済力を考えても、ユダヤ人を受け入れて、満洲国内に彼らの自治区を立ち上げることは日本の国益になると考えて、ユダヤ難民受け入れ政策を立案した。両大佐は、1937年に第一回極東ユダヤ人会議を開催し、1938年には、政府の五相会議で承認を得た。
しかし、この案については、ナチスドイツとの兼ね合いもあり、当時から、ユダヤ人を受け入れることが大きな益にはなるが、毒にもなりうるとして、「河豚計画」と呼ばれるようになった。確かに日本は、この当時からナチスドイツに近づくようになっており、1940年9月には日独伊三国同盟を結ぶに至っている。
このため、ナチスからの反対だけでなく、ユダヤ人自身からも受け入れられなかったため、河豚計画は、実施されるには至らなかった。
2) 上海でユダヤ人保護:ヒグチルートで2万人助かる?
河豚計画は挫折に終わったが、1938年から日本がナチスとの同盟に至る前後までに、安江大佐、犬塚大佐らの働きで、上海や満州国に逃れたユダヤ人は2万人とも言われる。その一部は神戸にまで到達していた。
その間に、欧州から満州に至る経路を可能にしたのが、樋口季一郎中将である。樋口中将は、シベリア鉄道の満州、オトポール駅で足どめになっていたユダヤ難民が、満州を通過して上海に向かうルートを確保した人物である。このルートが1941年ごろに閉鎖されるまでに、上海に逃れたユダヤ人は2万人とも言われている。
安江仙弘陸軍大佐と樋口季一郎中将は、ユダヤ民族基金(KKL-JNF)の記録、ゴールデンブックに、その功績とともにその名が記録されている。しかし、二人は、ヤド・ヴァシェムの諸国民の中の正義の人としては、今の所認められていない。個人や家族に命の危険があったわけではなく、国に反旗を翻すほどでもなかったことや、軍人として、自らも戦争行為に関わっていた可能性があるかもしれない。(未確認)
3) 杉原千畝命のビザで6000人助かる
杉原千畝氏は、リトアニア領事代理として、2130人に日本通過ビザ(いのちのビザ)を発行した。その後もウラジオストックで日本入国を可能にした根井三郎、敦賀までの船旅を担当したJTBの大迫辰雄、日本でビザ延長に翻弄した小辻節三などの働きで、6000人が助かったとされる。
このビザで、敦賀から神戸にきたユダヤ人は、それぞれ第三国に行って助かったが、太平洋戦争を前にまだ神戸にいたユダヤ人たちは、ほとんど全員が、上海へ移送された。そこからまたユダヤ人たちは、パレスチナを含む様々な地へ逃れていった。
日本のユダヤ人に対する考え方は、なんとも微妙な感じで、どう解釈するかで、ヒーローにもみえるが、同時にユダヤ人経済を利用しようとしたとも考えられなくもない。しかし、敦賀、神戸の一般市民は、おおむね普通に彼らが入ってくるのを受け入れていた。
このころ、日本でも反ユダヤ主義が拡大しつつはあったが、少なくとも、欧州のような社会的な悪魔視ほどの反ユダヤ主義は、日本にはなかったということである。
日本とイスラエルの関係:戦後から現在
1) アジア初:1952年にイスラエルとの国交開始
日本は、第二次世界大戦で敗戦国とされ、アメリカのGHQの管理下に置かれた。その後、東京裁判が行われたあと、1951年にサンフランシスコ平和条約が締結されて、日本は、1952年に、外交権を含む主権を回復した。
この間、イスラエルは、1947年に国連総会で独立国家としての承認を受け、1948年5月14日に独立を宣言。1949年に、59番目の国連加盟国となった。
日本は、1952年4月に主権を回復し、そのすぐ翌月5月15日に、イスラエルの独立を承認。国交を開始した。日本が国連に加盟して、正式に国際社会に復帰したのは1956年なので、それを待たずして、早々にイスラエルと正式な国交を結んだということである。
また、日本は、東アジアでは最も早く、イスラエルとの国交を開始した国でもあった。なぜこれほど早くにイスラエルとの国交開始を急いだのかは、いろいろ調べてはいるが不明。。
これは、イスラエルの視点からしても、独立後わずか4年で、かつてナチスと同盟を結んでいた日本と国交を結んだということは、特記すべきことである。実際、イスラエル国内では、これに反対する意見も大きかった。
この時、英断をくだした両国の首脳は、日本は吉田茂首相、イスラエルはベングリオン首相であった。
その後、両国の公館が大使館級になったのは1963年であった。
2) アラブ優先の外交方針
しかしながら、日本はその後、アラブ諸国からの石油に依存していたため、イスラエルとは距離を置く政策を続けた。その間、中国、韓国などアジア諸国は、技術協力など、イスラエルと関係においては日本より先を行く形となった。
3) 2014年から日本・イスラエル急接近
日本とイスラエルの関係が活発化し始めるのは、2000年代に入ってからである。特に2014年5月にネタニヤフ当時首相が来日し、安倍首相と日本・イスラエル共同声明を出した。
この時、両国は、パレスチナ問題で2国家2民族案を確認、イランの核問題の解決など、政治的な内容についての確認をした他、防衛、サイバーセキュリティ、経済、観光などで連携することで合意した。
www.mofa.go.jp/mofaj/files/000038473.pdf
この翌年2015年、安倍首相が、数百人の日本人ビジネスマンらを引き連れて、イスラエルを訪問。以来、大手企業をはじめ、多くの企業がイスラエルに投資を始めることとなった。
韓国には一足遅れたが、ワーキングホリデー制度も導入する。以後、双方に要人が訪問するようになった。
特に興味深い点は、この年、特に関西との経済連携にも焦点をあてた西日本イスラエル貿易事務所が開設され、様々なセミナーや、イベントが行われ、イスラエル企業と日本企業をつなぐ働きが進められている。以下のページからもわかるように、かなり活発である。
日本からイスラエル(スタートアップ)への投資は爆増しており、2021年中の投資額は417億円で、前年の27億円から実に15倍となっている。イスラエルへの輸出は、2021年度17億2681万ドル(14.2%増)、輸入は12億9781万ドル(5.4%増)となっている。
イスラエル企業と連携する企業は、三菱商事、住友商事、三井物産、旭化成、オリンパス、オリックス、キャノン、ソニーなど42社
www.jetro.go.jp/biznews/2022/11/f3b8d42d09f92638.html
www.jetro.go.jp/world/middle_east/il/basic_01.html
www.jetro.go.jp/biz/areareports/2022/b2faae7fa6a28a0c.html
石のひとりごと
日本には、世界でも独特のユダヤ人観があるように思う。反ユダヤ主義がないわけではないが、それよりもその能力に対するあこがれというか、敬意というか、そんなイメージがある。それは戦前の動きからもうかがえるところである。日本にユダヤ人が少なく、どこか遠い存在であったからかもしれない。
しかし、2000年代に入って、両国の貿易が拡大すると、互いに直面する機会も増えてきた。すると、コーヘン大使が言っているように、冒険に強く、動きが早いイスラエルと、保守的で、決定が非常に遅い日本の違いで、双方がとまどいを表明していた。
テルアビブに連絡事務所を置く三菱商事の責任者である甲斐隆氏も、イスラエルの決定の速さに、保守的な日本の遅さではついていけないと言っている。
しかし、同時にイスラエルは、0から1を作り出すのが得意。日本は1から100にするのが得意。だからペアを組むことは両国にとっても有益だと双方が気がつき始めているとの言われている。
これからも両国のよき関係の発展を祈る。