イスラエルでは、29日、日没午後6時から大贖罪日(ヨム・キプール)に入った。その前夜までの”スリホット”(ヘブライ語で、謝罪)で、告白してきた罪に関してヨム・キプールは、いわばその判決を受け取る日である。
この日、統計によると、ユダヤ市民(成人)の90%近くが、29日(金)午後6時から、30日(土)午後7時までの25時間、水も飲まない完全断食を行い、神を意識する。当然、レストラン、商業施設はすべて閉店。バスなどの公共交通機関はもとより、個人も車の運転を控える。
国営放送も停止している。イスラエルに民間放送はないので、30日日没まで、テレビもなし。ネットのニュースもストップしている。
29日、日没後は、コール・ニドレと呼ばれる特別な礼拝が行われる。人々は、日没後、居住区最寄りのシナゴーグに行き、夜10時すぎぐらいまでを過ごす。それまで、12歳以下の子供達は、ガラガラになって”安全”な道路で、自由自在に自転車をのりまわして遊ぶというのが、ヨム・キプールの風物詩である。
今年は、安息日と重なった。通常の安息日なら、金曜夜は、夕食を終えたあとに、遅くまでサッカーを楽しむ声が聞こえるのだが、さすがに今夜はそれもない。静まりかえった中、子供達が、自転車や三輪車などを乗り回す声が聞こえはじめている。
一方で、イスラエルは、この聖日に合わせ、西岸地区からのパレスチナ人の出入りを制限し、エルサレム、特に旧市街の警備を強化して、治安の維持にあたっている。休日に休んでいない治安部隊もいるということである。
<罪を神の前に告白するということ>
大贖罪日の祈りは、「ビドゥイ」と呼ばれ、自分の罪を神の前に言いあらわし、告白するというところから始まっている。このため、白い服を着る人が多い。
ユダヤ教では、この祈りの際、前に頭を下げてはならないと教える。自分が、悪いことをしたと思ったら、どうしても頭を下げてしまうのだが、そうではなく、まっすぐ顔をあげて、神の前に出て、胸をたたきながら、声にだして、罪を告白せよというのである。神の前に隠し立てや、とりつくろいをしないためである。
しかし、この日、神の前に顔を上げるためには、実際には、この日までに、それぞれが自分の罪を自覚し、悔い改めているというのが前提になっている。また。だれかを傷つけたことを思い至ったら、まず、その人に対して謝罪し、関係の回復をしておかなければならないと教える。これができていてはじめて、ヨム・キプールの日に、神の前に出て、神の赦しを求めることができるのである。
ラビ・フォールマン(現代正統派)によると、ユダヤ教の賢者ラビ・ランバンは、正しい悔い改めは4つのことからなると教えた。①罪から離れる決心(現在)。②同じ罪を繰り返さないと決心する(未来)。③犯した罪について真に後悔する(過去)。④罪を告白する、の4つである。
このうち、①〜③は、自分の内面でのことだが、④だけは、相手がある。ユダヤ教では、この④だけが、”ミツバ”(613箇条の律法)に含められているという。それは、④だけが、崩れていた関係を実際に修復することになるからである。
この時、大事なことは声に出して罪を悔い改めるということである。相手がある場合、声に出して罪を告白し、謝罪しなければならない。それによって、関係が回復し、未来を変えていく力になるのである。口に出して告白し、関係の回復を得る。これは、神との関係回復の一歩においても同様である。
ユダヤ教から発したキリスト教にもこの教えは反映している。「人は心に信じて、口で告白して救われるのです。(ローマ人への手紙10:10)」
<赦しの代価について>
聖書によると、かつてエルサレムに神殿があったころ、年に一回、ヨム・キプールの日に、牛が殺され捧げものになり、赦しの代価としていた。しかし、今は、神殿がない。あってもおそらく、生き物保護の観点から、牛を殺すことに反対するというのが、現代のイスラエルスタイルであろう。
現代においては、一部の超正統派は、鶏を頭の上でふりかざして(カパロット)、それを罪の代価にするが、多くのイスラエル人は、鶏の代わりにお金を代価として、チャリティ団体などに寄付をする。最近は、超正統派でも、鶏ではなく、お金を捧げるスタイルが増えてきているという。
ヨム・キプール前夜、エルサレムの超正統派地域メア・シャリームにカパロットの取材に行くと、世俗派とみられるイスラエル人たちが見物に来ていた。聞くと、それぞれ、「俺は鶏をささげた」「私はお金よ」とそれぞれが言っていた。世俗派なのだが、この日の行事は実施しているようである。
この罪の代価の背景にあるのは、”犠牲をはらう”という概念である。ユダヤ教では、鶏やお金を代価にすることに合わせ、ヨム・キプールの日1日を断食して苦しむこともその一環と考えられている。確かにこの乾燥した国で水も飲まないというのは、なかなか苦しいことである。実際には寝て過ごす人も少なくない。
また、大贖罪日の前10日間は、悔い改めのスリホットと呼ばれる祈りが捧げられるが、これは、夜中0時から1時と決められている。本来寝ている時間をいわば犠牲にして、祈るところに意義があると考えられている。
この点において、キリスト教は、牛ではなく、神の御子であるイエス・キリストが犠牲となり、十字架にかかって、人類のために死に、その後よみがえって、罪の完全な赦しの道を作ったと教える。言うまでもなく、ユダヤ教はこれを信じていない。
<終末に来るイスラエルの国家的悔い改め>
聖書には終わりの時に、イスラエルは世界諸国に攻められるが、その中で、イスラエル人が神の前にいっせいに悔い改める様子が描かれている。
・・・その日、わたしはエルサレムに攻めてくるすべての国々を探して滅ぼそう。わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に恵みと哀願の霊を注ぐ。
彼らは自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くようにその者のために激しく泣く。・・・・その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる。(ゼカリヤ書12:9−13:2)
大贖罪日とその前のスリホットの期間、嘆きの壁の前で、ユダヤ人の大群衆が、神に泣き叫んで祈りを捧げるが、その様子は、まさにこの時の準備であると感じさせられる姿である。
嘆きの壁の大群衆と、それを警護する警察の様子:http://www.jpost.com/Israel-News/Thousands-gather-at-Western-Wall-ahead-of-Yom-Kippur-506306
<石のひとりごと>
ヨム・キプールの前夜、つまりは、悔い改めの最終日、近所のシナゴーグのスリホットを取材した。男性は下、女性は上と別れる。下の男性たちは、100人前後だろうか。黒服に黒帽子、髭をのばした老人、編んだキッパをつけた小太りの中年男性、白髪の老人、これらにまじって、野球帽を逆さまにかぶり、穴の空いたジーンズ姿の少年たちも一緒に神の前に出て、真剣に祈っていた。
イスラエルは、この現代においても、この日は、聖書に記された通り、国をあげて、聖書の神の前に出る。その礼拝の様子には、年配スタイルも若者スタイルもない。
欧米系か、東方系かによる違いはあるものの、基本的にこの日の礼拝は、昔からほとんど変わっていない。それでも、いわゆる”若者離れ”はまったくない。
若者も年配者も、この神の前にあっては、少なくともこの日だけは、すべてが罪人であると意識する。結局のところ、この神との関係を維持することこそが最も大事なことであるということを覚えざるをえない国。それがイスラエルである。しかし、それこそが今もイスラエルを守り、不思議に強くしているのである。
この点、日本には、こうした絶対の神が存在しない。だから平気で「神対応」とかいった言葉が氾濫する。さらに最近、ある記事を見て震え上がった。「バルス現象」というもので、ツイッターで一斉に「バルス!」という呪いのことばを発信するという現象である。
バルスとは、「閉じる」とか「滅び」「破壊」を意味することばで、テレビで、天空のラピュタが放送される時に、主人公が戦いでバルスというタイミングに合わせて、いっせいに「バルス!」とツイートするという現象である。天空のラピュタが放送される時は、「バルス祭り」と呼ばれている。
この現象は2011年から始まっていたらしく、2013年には、1日のツイッター量が431万4588回と、世界記録にも達したという。あまりにも多数のツイッターが殺到するので、実際にサーバーが破壊されたこともある。そのバルス祭りが、この9月29日、ちょうどイスラエルがヨム・キプールに入った日に行われた。
今回の放送日のあった29日のツイッター数は、2013年よりは激減し、188万5599回だったらしいが、ここ数年、「閉じる」とか、「破壊」といった呪文が日本中に流れていたのかとおもうと背筋が寒くなった。
www.nikkei.com/article/DGXLASDZ27HWF_Y7A920C1000000/
一方、今、エルサレムでは、9月20日からトム・ヘス牧師が開催する祈りの祭典が行われており、今年も日本から富田慎吾牧師を中心に16人の若い世代のグループが参加している。祈りの期間は2週間。毎日夜中に起きて日本やアジアのためにとりなしている。日本チームが来始めたのは、ここ3年ほどのことである。
彼らの祈りを聞くと、「開く」とか「門から入る」とかがキーワードとなり、絶対の神、聖書の神、イエス・キリストの犠牲による罪からの救い、すべての呪いからの解放が日本の上に宣言されている。バルス現象の「閉じる」とか「破壊」という呪いを押し返してくれているようである。
若い人々が、経済も時間も捧げ、エルサレムまで来て、夜も寝ないで祈る姿は、イスラエルの大贖罪日に犠牲を払おうとするユダヤ人の姿に匹敵するようでもある。まさに、「ダビデの幕屋」を日本にももたらそうとする姿だと感じた。多くの犠牲をはらって家族連れで毎年来られる富田慎吾師とそのチーム働きに感謝した。