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今年もヨム・キプールで大群衆が悔い改め
エルサレムでは、新年から5日後、9月24日の日没からヨム・キプール(大贖罪日)に入った。この日、神が最終の裁きを書物に書き記すと言われている。ユダヤ人たちは、25時間断食して、神の前に出る。互いに「ハティマ・トバ」と神はあなたについて、よいことをいのちの書に書いてくださるようにと挨拶する日である。
アメリカに行っていたネタニヤフ首相は、ヨム・キプールギリギリに帰国。帰国した時の空港は空っぽになっていたとのこと。この間は、世俗なテルアビブにいたるまで、ユダヤ人地区のすべての交通機関、店舗もすべてがシャットアウトになる。
嘆きの壁では、スリホットとよばれる新年前後からこの日にかけて、人々が昨年1年の悔い改めに来る。ヨム・キプール直前の最終日には、7万人が嘆きの壁に来ていたという。
以下は、ヨム・キプール前日の最後のスリホットの様子
ヨナ書に見る正義と憐れみについて
ヨム・キプールのこの日、ユダヤ人たちが読むのは聖書の中のヨナ書である。なぜヨナ書物なのか。この中に、個人的な罪への悔い改めというテーマは出てこない。ストーリーは以下の通り。
ヨナは、イスラエルがアッシリアに襲撃され、多くが捕囚として連れさられたころの預言者であった。ヨナは、イスラエルが憎むべきアッシリアの首都、ニネベに行って、悔い改めを呼びかけるようにとの使命を神から与えられる。
ヨナは、憎いニネベが悔い改めて、赦しと祝福を受けることを受け入れられず、この使命から逃げようとする。死んでもやりたくないからである。最終的に海へ投げ込まれる事態になるが、海の中にいた魚に飲み込まれ、3日後に、魚に吐き出されて生き延びる。
観念したヨナは、ニネベに行き、悔い改めを呼びかけた。ニネベの人々はこれに聞き従い、裁きを免れることになる。
しかし、ヨナは腹が立って仕方がない。ニネベで実際に何が起こるか見極めようとした。その時、炎天下にいるヨナに、日陰となるつた(とうごま)を主は1日ではやさせる。しかし、その翌日、虫が来て、1日で食べきってしまう。
ヨナは、死んだ方がマシだというほどに腹を立てたのであった。そのヨナに神は、「あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。まして、私は、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。」と語られた。
ユダヤ教組織Alephbetaのラビ・デービッド・フォールマンは、ヨナ書でのテーマは、正義(Justice)と憐れみ(Compassion)みであると解説する。この世で起こることは、すべて、原因と結果であり、その連続である。原因あるところには、かならず結果が伴う。それが絶対の法則であり真理であり、正義(Justice)だということである。
www.alephbeta.org/playlist/story-of-jonah
しかし、この世では、そうではないこと、不条理にしかみえないことも起こる。たとえば、愛する家族を奈落の底に突き落として殺した犯人を前に、裁判官が遺族に訴えを取り下げるようにと言ったとする。この家族は、ぜったいに合点がいかないだろう。まして、その裁判官が神、主であったらどうするだろうか。
私たちは、この地上はすべて主が創造されたということを忘れているかもしれない。しかし、いかんせん、その主権は、私たちにあるのではなく、主にあるということである。ユダヤ人は苦難の歩みを通じて、それをいやというほどに教えられている。
ホロコーストで強制収容所での究極の不条理を経て、精神科医フランクルが、その著書「夜と霧」の中で、この不条理の中で生きることの意味について、次のように書いている。「人間の生命は常に、いかなる事情の下でも意味を持つこと、そしてこの存在の無限の意味はまた苦悩と死をも含むものである。」
なかなか受け入れられにくいが、ユダヤ人の考えを探れば常に出てくる、「私たちには全部わからない」という真理にたどりつくのである。原因と結果の法則は、この地上だけで完了するものではないということである。
では、神は自分勝手で無慈悲なのかといえば、そうではない。私たちすべては、死んだ時に、地上で与えられた時間で何をしてきたかを振り返り、裁かれることになる。走馬灯のようなビデオの前に、自分と神、主が共にそれを見る。神の前によかったことだけでなく、悪かった罪、恥ずかしい罪もすべてが明らかになる。ラビ・フォールマンは、この中にこそ、神の憐れみがあると言う。
この一人一人への裁きこそ、神がそれぞれの人生の詳細にわたって気にかけ、見守っていた(あわれみ)ことを表しているからである。どうでもいいなら、そこまで詳しく見ていなかっただろう。人間は生まれてきたからには、すべて神の目に重要だということである。
ユダヤ人は、自分が思いつく限りの悔い改めをして、周囲の人々と和解し、ヨム・キプールの日を迎える。そうして神の前にたち、昨年1年の赦しを受け取って、また新たな1年を歩み始めるのである。
ヨム・キプールとキリスト教の関係
このことは、キリスト教にも深く関係している。ユダヤ人たちは、ヨム・キプールの日に、過去の罪の罰、すなわち死をかわりに担ってくれるものとして、特別な傷のない、赤い牛を、エルサレムの神殿で、犠牲として捧げるように聖書で指示されている。現在は、神殿がないので、そのままのことができない状況にあるだけである。
キリスト教では、その赤い牛の犠牲の完全版が、イエスであると教えている。イエスが、すべての罪を背負って死に、そうして墓に葬られてから3日目によみがえったことで、あらゆる罪の赦しが完成したと考える。神と親しい関係に戻って、まさに新しい歩みをスタートするということである。
イエス自身が、魚の腹に3日滞在したヨナは、そのしるしであると教えている。(マタイ12:39-41)
ユダヤ教もキリスト教も、どちらも原点にあるのは、すべての主権は神、主にあるということである。これは実は、厳しいのではなく、救いであるといえる。
すべての正義が人間によらないからである。神は、すべて見ておられる。不条理に見えることも私たちにはわからなくても、神の目に正義はどこかで成立されることになる。不条理を自分で解決しない。不条理に一生縛られずにすむ。それよりも、「すべてわからない」が、この良いと宣言する神を信用し、歩んでいく方が、どれほどに救いだろうか。約束は以下の通りである。
まことに主は、ご自分の御名のために、ご自分の民を捨て去らない。主はあえて、あなたがたをご自分の民とされるからだ。(第一サムエル記12:22)
ここに立ち返ることが、ヨム・キプールということである。