アメリカ在住のラビ・デービッド・フォールマンは、正統派ラビで、聖書を非常に深く解説する教師。ティシャベアブに関する興味深い解説がなされていたので、要約を紹介する。
ティシャベアブでは哀歌が読み上げられるが、これは紀元前586年にエルサレムが、バビロンに破壊され、ユダヤ人たちが、バビロンへ捕囚として連行されていく姿を見て、エレミヤが綴った悲しみの歌である。しかし、それは悲しみと同時に希望の歌であるとユダヤ教は教える。
ユダヤ教によると、ティシャベアヴは、嘆きの日だけではなく、立ち上がる日であると教える。まずは、罪という失敗がこれらの悲劇をもたらしたと、ごまかさず認め、神の前にへりくだる。
神は再び受け入れてくださり、本来のイスラエルに戻し、再び前を見させてくださる。ただ元に戻るだけでなく、失敗から学んだことで、前よりよくなるとユダヤ教は教える。
最悪の状態と最善の状態は同時に来ると考えている。だから失敗を恐れないだけでなく、失敗したときこそ改善、前進のチャンスと考える。このため、ティシャベアヴは、嘆きとともに喜びで終わらせるのである。
<ヒゼキヤ王に見るメシア像>
ラビ・フォールマンは、ティシャベアブの中にメシア像があると解説する。最悪の中に最善、メシアは最高の希望であるがある。ラビ・フォールマンは、第一神殿崩壊のきっかけになったヒゼキヤ王から次のように解説する。
聖書によると、紀元前586年のバビロン捕囚は、その120年ほど前のヒゼキヤ王(ユダ王国)の時代にすでに、預言されていたことだった。
ヒゼキヤ王は、当時のイスラエル、ユダ王国の王として、人々と国を神に立ち返らせる働きをした王で、ユダヤ教では、ダビデ王の次に偉大な王と考えられている。(第二歴代史29−32)
しかし、そのヒゼキヤ王が、最後に、バビロンから来た使者たちに王宮のすべてを見せたことで、預言者イザヤが、「将来、エルサレムはバビロンによって滅ぼされる。」と預言した。(イザヤ39)
いわば、ヒゼキヤの失敗が、第一神殿の崩壊、バビロン捕囚を招いたようなものである。それだけでなく、ヒゼキヤはメシアになれたかもしれなかったのに、なり損ねた、メシアは先延ばしになったとラビ・フォールマンは解説する。
ラビ・フォールマンによると、ヒゼキヤ王がしたことは、過去のイスラエルの王たちの失敗を、やりなおすことによって失敗を塗り替えた。これが彼を偉大な王にする。
まず①エルサレム神殿の扉を開き、祭司を任命し、神へのささげもの(罪、近づき、感謝)を復活させたこと。(第二歴代29:27−28)
これは父アハズ王が、アッシリアの神を取り入れ、神殿の扉を閉め、イスラエルの神から離れたことを修正したということである。
次に②マナセ・エフライムも、神殿回復後の最初の過越に招いたこと。(第2列王30:1)マナセ・エフライムは、北イスラエルに所属する部族で、かつてユダ王国を攻撃した部族である。
マナセ・エフライムを含む北イスラエルは、先にアッシリアに破滅させられていたが、その時、捕囚を逃れて難民となり、ユダ王国に来ていた者たちもいた。ヒゼキヤは、最初の過越に、このかつては敵であった人々をも招いたのであった。
これは、大昔ヤラベアム王が、北イスラエルの人々を南ユダのエルサレムに行かないように、ダンに金の子牛を拝みはじめて以来の罪を覆し、信仰においても南北統一を回復させた形である。
こうしたリバイバルの後、エルサレムにアッシリア攻めてきたが、ヒゼキヤ王は、主への信頼をもってこれに対処した。これに答え、主はヒゼキヤの力をいっさい用いず、主一人でアッシリアの軍勢を全滅させ、エルサレムを守ってくださった。(イザヤ37:15−38)
ヒゼキヤが病気になった時も日時計を戻すという奇跡を行って、生きる日数を伸ばしてくださった。(イザヤ38)
バビロンの使者が来たのはこの後である。ラビ・フォールマンは、この時、バビロンの使者たちは、ユダという小さい国がなぜアッシリアを撃退でき、ヒゼキヤのために日時計が戻されたのか、祝いとともにその背後に何があったのかを探りに来ていたと解説する。
ヒゼキヤ王が失敗したのはここである。
ヒゼキヤ王は、この時、イスラエル国民と、この使者たちを交えて、主をほめたたえることができたはずである。これが実現していれば、イスラエルの人々を主に立ち返らせるだけでなく、異邦人のバビロンをも主のところに迎えることができたはずである。
ラビ・フォールマンは、エジプトの宰相であったヨセフが、父ヤコブを葬るためにヘブロンへ向かった際、エジプトのパロは、これに護衛をつけ、豪華な葬儀となったことに注目する。ヨセフを通して、イスラエルの神こそ本当の神であると認めた異邦人の国エジプトが、イスラエルとともに約束の地へ戻った事件である。
出エジプトの時に、もし同様もことが起こっていれば、イスラエルも異邦の民も救われ、この時に神の計画は終わっていたかもしれない。イスラエルも世界諸国も皆が、主のもとに来るというのが最終的な主の計画であり、それを実現させる使命がイスラエルにはあるとユダヤ教は考えている。
ヒゼキヤは、まずイスラエルの民を統一し、主に立ち返らせたところまで達成し、また主の奇跡をもって世界に主の存在を知らしめたという点では、メシアに最も近づいた存在であったとユダヤ教は考えている。
しかし、ヒゼキヤは、バビロンが、その主について、聞きたいと思ってきていたにもかかわらず、イスラエル人の輪に加えることをせず、外国人として扱い、主ご自身ではなく、主が祝福された金銀や、宮殿を見せたのであった。
世の宝だけを見たバビロンの使者たちは、おそらく「何も特別なものはなかった。偶然勝ったのだろう。」と落胆して、バビロンに帰り、これは勝てると考えて、やがて攻めてくることになったとラビ・フォールマンは、解説する。
<イスラエルの本来の使命>
ユダヤ教によると、イスラエルが本来の位置に立って、主の力を現すことで、全世界がイスラエルを通して主を知ることができ、イスラエルに同行するようになる。これを実現するのがメシアだというのである。
イスラエルに世界が集まってくるのは、イスラエルが偉大だからではない。主が共におられるからこそ、イスラエルには価値がある。それがなければ、ただの小さい弱い国である。出エジプトもヒゼキヤ王のエルサレム救出も、全面的に主が単独働かれただけである。
ヒゼキヤ王は、この点で失敗した。イスラエルの価値のすべてである主を世界の示さなかった。だからイスラエルは滅んだ。しかし、失敗したからといって、見限らないのが、イスラエルの神である。立ち還りさえすれば、また次のチャンスがあり、イスラエルにメシアは必ず来る。
この話を聞きながら、これらの後に来たイエスを思わされた。イエスは、人間の罪に対する罰を代わりに受けることによって、人が神、主、すなわちイスラエルの神に立ち返る道をつくられた。
これを信じて主に立ち返ると、ユダヤ人だけでなく、異邦の民でも、イスラエルの聖書を読むようになり、エルサレムを聖地としてやってくるようになる。
これは、ラビ・フォールマンが、メシアの働きとして解説するところのことがらーイスラエルと神との関係を回復させ、祭司にとどまらず、ひろくユダヤ人社会、さらには、世界諸国の民をも主につらなるものにするというその姿そのものである。
ラビ・フォールマンご本人は決してお認めにはならないであろうが、イエスを知って彼の解説を聞くと、どうにも合点がいってしまうのである。
「最悪の事態は、また最善の事態にもなりうる。」これがティシャベアブであり、その最終的な最善は、メシアであるということである。
初めまして。
アメリカ在のラビによるティシャベアブの解説とメシア観の上記記事を非常に興味を持って読みました。教えて下さり、ありがとうございます。
ユダヤ教の最高指導者達がイエスこそメシアであると目が開かれるように、また彼らが本来の使命に立ち返ることが出来るようにと祈ります。
いつも現場から信頼できる臨場感のあるニュースを発信して下さり、感謝しています。これからも宜しくお願い致します。石堂さんの健康と安全、必要のためにも祈ります。
シャローム