ウクライナの首都キエフで続いている反体制デモ。100人近い死者を出して22日、ついに親ロシア派のヤヌコビッチ現大統領が議会で不信任決議を出され、失脚するに至った。
同時に親米派のティモシェンコ元首相が釈放され、ウクライナは東西分裂かとも言われる状態になっている。
ウクライナの歴史を見ると、こうした政治不安の時に懸念されるのが、反ユダヤ主義暴力である。
土曜日、ユダヤ機関主席のナタン・シャランスキー氏は、全力をあげて、ウクライナのユダヤ人コミュニティの保護に乗り出す方針を明らかにした。
まず手始めとして、ウクライナのユダヤ諸団体の防衛能力強化が行われる。資金は、2012年フランスでユダヤ人教師らが射殺されたテロを受けて設立されたユダヤ共同体緊急支援基金から拠出する。
<ウクライナのユダヤ人虐殺の歴史>
ウクライナには相当恐ろしい反ユダヤ主義の歴史がある。
ウクライナでは1905年、反政府革命が勃発。同時に、「血の中傷(ユダヤ人が儀式にクリスチャンの血を使っているという中傷)」によるポグロム(ロシアでのユダヤ人虐殺)が各地で起こるようになった。
キエフ周辺では、1919年、数回にわたってユダヤ人共同体が襲撃され、ユダヤ人14人が殺害、9人が負傷、15人の女性や少女が集団暴行を受けた。これをキエフ・ポグロムという。この後、ウクライナ中にポグロムの波が広がっていく。
このポグロムの波で、1326回のポグロムが発生し、死亡したユダヤ人は、3万から7万人。数千人のユダヤ人女性が暴行された。多くのユダヤ人コミュニティが全滅し、50万人がホームレスになったともいわれる。
ウクライナ南部のオデッサでは1880年代からポグロムが記録されているが、1941年10月の虐殺が特に恐ろしい。この時、オデッサとその周辺の町での虐殺も含めると、ユダヤ人10万人以上がたった3日間で虐殺された。
19000人は射殺された後、倉庫に入れて焼却(ある者は生きたまま焼却)。2万人は、40-50人をひとまとめにして、穴の上に立たせ銃殺してそのまま穴へ落ちるようにしていたが、時間がかかりすぎるため、倉庫などにユダヤ人を押しこめて、まとめてマシンガンで銃殺。建物はそのまま焼却している。
それでも生き残った3.5~4万人は、建物がまったくないゲットーに連れて行かれ、10日間(10月25日から11月3日)屋外に放置された。低体温でほとんどが死亡した。
<ウクライナのユダヤ人の現在>
イスラエルが建国する1940年代まで、ウクライナには270万人のユダヤ人がいた。イスラエルの建国と、1970年代の移住の波で、そのほとんどがイスラエルへ移住。
今もウクライナにいるユダヤ人は、約6~7万人。ほとんどは首都キエフに住んでいるが、オデッサなどにもユダヤ人が在住している。