目次
ゼカリヤ書とナホム書の一部写本断片出土
16日、イスラエル考古学局が、65年ぶりに新たな死海写本を発見したと発表した。発見されたのは、約1900年前のバルコフバ戦争時代のいわゆる避難民の洞窟からの写本で、ゼカリヤ書、ナホム書の一部にあたる80枚の断片である。
これらの紙片を復元して出てきた聖書箇所は以下の通り。
ゼカリヤ書8:16-17
これがあなたがたのしなければならないことだ。互いに真実を語り、あなたがたの町囲みのうちで、真実と平和のさばきを行え。互いに心の中で悪を計るな。偽りの誓いを愛するな。これらはみな、わたしが憎むからだ。―主の御告げー
ナホム書1:5-6
山々は主の前に揺れ動き、丘々は溶け去る。大地は御前でくつがえり、世界とこれに住む全ての者もくつがえる。だれがその憤りの前に立ちえよう。だれがその燃える怒りに耐えられよう。
これらはギリシャ語で書かれたいるが、神の名前だけは、ヘブル語であったという。また、文章がマソラ本文と呼ばれる古くからのヘブル語聖書と若干違っている部分があり、当時の時代を考察する材料になるとのこと。
*バル・コフバ戦争(132-135年)
紀元前1世紀から紀元後1世紀にかけて、イスラエルではユダヤ人たちが、ユダヤ属州としてローマ帝国に支配される状態にあった。この頃、イエス・キリストが現れ、十字架にかかって死亡。復活してキリスト教が始まっていく。この頃から、ユダヤ人たちは、本格的にローマ帝国に反逆し、各地での戦乱の末、紀元後70年にエルサレムの神殿が破壊され、ユダヤ人のエルサレムは滅亡し、ローマ帝国のアエリア・カピトリーナとなる。これを第一次ユダヤ戦争という。
この戦争の時、死海に住んでいた敬虔なユダヤ教グループ、エッセネ派は、大事な聖書の巻物をローマ軍に奪われてはならないと、死海周辺の絶壁に散在する洞窟に巻物を隠し、一部はマサダに逃げたが、結局全滅したのであった。
その後もユダヤ人たちの過激派は、ローマ帝国に反発を続け、135年にバル・コフバという人物が、イスラエルを復興させるメシアであると自称し、反逆を開始した。当時、ユダヤ教の有力な指導者、ラビ・アキバがこれを支持したために、多くのユダヤ人たちがこれに付き従った。しかし結局、ローマ帝国に破滅させられる。以後、ユダヤ人たちは、いよいよこの地域から姿を消し、流浪と迫害の道を歩んでいくことになる。これを第二次ユダヤ戦争、バル・コフバ戦争という。
この時もユダヤ人たちは、死海に面したユダの山々に向かって逃亡し、洞窟に隠れた。今回、写本が見つかった洞窟は、1950年代に、この時代の遺体80体が発掘されたどうくつである。遺体は、当時ローマ軍に包囲されて死に至ったユダヤ人たちの遺体で、ホラー洞窟と呼ばれるようになった。
今回、ここで発見された死海写本は、この時のものと考えられる。写本が、神の名前以外はギリシャ語であったというのも、時代背景を表していると言える。
2021年:テクノロジーによる死海写本発見の時代へ
1)1947年:クムランで最初の死海写本発見
写本が隠されてから約1900年経過した1946年、ベドウインの少年たちが偶然に洞窟の一つから、多数のツボを発見する。ほとんどは空だったが、一部は蓋があり、中に死海写本の巻物7つが入っていた。巻物は、2つのイザヤ書と、共同体の規則、ハバクク書の解説書、戦争記録、感謝の書、外典創世記であった。
このうち3つはヘブライ大学のスケルニク教授が入手したが、イスラエル独立戦争の混乱の時期でもあったため、残り4つは、これらを管理していたシリア正教会のサミュエル大司教がアメリカへ持ち出したため入手できなかった。ところが、サミュエル大司教が、1954年に新聞に転売の広告を出したことから、スケルニク教授の息子のイーガル・ヤディン教授が、これを入手する。こうして、最初に見つかった7つの死海写本巻物全てが、イスラエルの国宝となったのであった。建国と同時に死海写本が発見され、イスラエルの国宝として“復活”したことは象徴的と受け取られた
これらの死海写本は、この時までに最古と見られていた聖書の巻物から一気に1000年遡るもので、紀元前300年にまで遡っていた。いうまでもなく世界最古である。その後、発掘が続けられ、これまでにクムランや、死海周辺の11の洞窟から、230点のエステル記以外の旧約聖書全てと、聖書以外の文書とその断片などが発見されている。
www.deadseascrolls.org.il/home
*目に見えない文字もデジタル技術で解読
死海写本は、イスラエル考古学局が管理、研究している。文字が見えないようなものもデジタル技術で読めるようにして、ネットでも自由に見ることができるようになっている。
なお、クムランでは、イザヤ書の他、光の子と闇の子の戦いといった文書も発見されており、当時クムランにいたエッセネ派たちが、世の終わりと神の裁きと、メシアの到来に心を止めていたことがわかる。イエスの到来を告げたバプテスマのヨハネも、クムランにいたという説があり、新約聖書との関わりも推測されている。
スティーブンス栄子さんのガイド(日本語)“今まで見つからなかった事が奇跡”
2)2021年:ホラー洞窟の死海写本
今回、死海写本が発見された場所は、エンゲディから北西方面に広がる広大なユダ山脈、ナハル・ハベル自然保護区で、政治的には、西岸地区内部にあたるため、イスラエルに管理権はないのが、ユダの山を一つとしてみるとの考え方から発掘が可能となった。
この自然保護区には、深さ300-400メートルもの断崖絶壁が150キロにわたって続いており、これに沿って多数の洞窟が存在する。この地域には、死海写本はじめ、貴重な考古学的資料がまだまだ眠っていると見られ、地域のベドウィンなどによる盗掘が横行していた。盗掘されたものは、高価な値で売買される。オンライン上で販売されているのを発見することもあるという。いわばレイダース失われたアークの世界である。
このため、盗掘に盗まれる前に発掘する必要があるとして、イスラエル国立の考古学局とユダヤ・サマリア地区・考古学部が、エルサレム遺産省の出資も得て、2017年から大規模な探索を始めた。ハイテク、最新のドローンなど、盗掘たちには到底届かないような技術を使い、資金も投入しての本格的、大規模な発掘作戦である。探査チームには、4チームで、考古学者だけでなく、様々な分野のエキスパートも協力し、マンパワーにおいては、従軍前の若者たちも動員した。死海写本は、まさにイスラエルにとって、その存在の歴史を証明するまさに国宝中の国宝なのである。
こうして4年の月日が流れ、絶壁80キロに、洞窟約500個のマッピングが終わったとのこと。その中で、今回、探査チームは、深い絶壁を80メートルも吊り下げられてやっと入れる通称、ホラー洞窟に入り、新たな死海写本と、当時のコインの入った袋を発見したのであった。
この洞窟では、1950年代と1960年代に、ヨハナン・アハロニ博士が、バル・コフバ戦争時代の遺体80体が発見した洞窟である。もはや何もないかもしれないと言われていたが、新しいテクノロジーの助けで、旧時代の発掘隊が見落としていた死海写本の断片、バル・コフバ時代のコイン、推定6000年前の幼児の自然ミイラ化していた遺体を発見したのであった。
このチームを導いたのは、この地域で40年以上発掘を続けている考古学者オフィル・シモン博士(60)。チームがホラー洞窟で3週間にわたり、中の土をふるいにかけたところ、死海写本の紙片が出てきたという。しかし、文字は非常に見えにくいもので、小さな花粉まで見抜く考古学植物学者がいたからこそ発見できたとシモン博士は語っている。
また、チームに金属探査を行うエキスパートがいたことで、かつてアハロニ博士が見落としたコインの山を発見することができた。このチームは、この他にも巻物の塊のようなものも発見し、これも写本であることがわかった。高い技術だけでなく、様々なエキスパートの協力がこの100年に一度とも言われる大発見につながったのであった。
しかし、現時点で、何かあると見られる洞窟は20箇所あるという。またユダの山(荒野)の25%はまだ手付かず状態で残されている。今後も発掘が続けられていき、大きな発見も期待できるとのこと。
www.timesofisrael.com/dead-sea-scroll-discovery-brings-tantalizing-prospect-of-more-yet-to-be-found/
死海写本意外の発掘物について
1)バル・コフバ時代のコイン
死海写本とともに見つかったコインには、ローマ帝国に反発するユダヤ教組織のシンボルであるパームツリーなどが掘り込まれていた。おそらくは、ローマ軍から逃げようとしたユダヤ人家族が、財産をこの人が到達できないほどに危険な場所にある洞窟に隠し、落ち着いたら取りに来るつもりだったのではないかと考えられている。
2)6000年前の子供:ミイラ化した遺体発見
ホラー洞窟では、6000年前の者と見られる子供(6-12歳)の遺体も発見された。大きな石を取り除けたところ出てきたもので、意図的に石の下に埋葬したと考えられている。遺体は頭と胸が布で覆われていた。死海周辺の気候により、自然にミイラ状態になったとみられる。
3)1万5000年前の網カゴ発見
ホラー洞窟より少し北のナハル・ドラゴットの洞窟では、土に埋まっている網かごが、ほぼ完全な形で出土した。これまでに発見されていた土器から1000年も遡る1万5000年前、先土器石器時代のものとのことである。発見したのは、ボランティアで発掘に参加していた、従軍前ユースグループの一人であった。残念ながら、中身は空っぽであったという。