石のひとりごと:主の恵みはとこしえまで 2024.8.16

ガザ情勢、イラン情勢の緊張はとその中にある暗闇は、あまりにも深い。戦闘が続くガザでは、人々が34-35度という暑さの中、クーラーどころか冷蔵庫もない生活を強いられ、混んでいるキャンプで、伝染病も拡大している。多くは家族を失っているだろう。

そうした中、地下のどこかにいるイスラエル人の人質たち。それを探そうと、ハマスやイスラム聖戦と戦わなければならないイスラエル兵たち。仕掛けられた罠を避けるために、先にパレスチナ人を通らせてから行くことも行われているという。罪も双方。苦しんでいるのも双方である。

イスラエルを取り巻く暗闇に目を向けると、出口のなさに心が沈む。しかし、今日、詩篇136編で、「主の恵はとこしえまで」と何度も繰り返されているところに目が止まった。何度も読んできた箇所だが、そう、主の恵みはとこしえまでなのである!

ニューヨークのタイムズクエアチャーチのディレナ牧師は、「靴を脱いで戦う」というヨシュア記5章からのメッセージされていた。

この箇所は、モーセの後を引き継いだヨシュアが、イスラエルの民を率いるなか、ヨルダン川が分かれるという奇跡を通って、約束の地に入った時のことである。目の前に出て来たのは、巨大な壁のある町、エリコであった。さて、どうしたらいいのか・・その時、主がヨシュアの前に現れる。

ヨシュアが、「あなたは味方ですか、それとも敵ですか」と聞くと、主はどちらとは言わず、「主の軍の将として来た」と答えた。

私たちは、困難を前にした時、だれが敵で、だれが味方かと、人間的計算でこの2者ばかりを見ていることが多い。そうしてそこには両者の対立が起こる。
しかし、その2者だけでなく、そこに主がおられるということを思い出す必要があるということである。

ディレナ牧師は、3つのJ「エリコ、ヨシュア、そしてイエスと3つのJ」だとして、先の2つのJにとらわれず、3つ目のJに目を向けようと語る。

また主はこの時、ヨシュアに靴を脱ぐように指示した。そして、人間的には、理論的ではないようなこと、格好のいい、戦いへの勝利ではなく、皆で、エリコの壁の周りを回れというのである。

その通りにすると、その結果、主が戦ってくださり、エリコの壁が落ちてヨシュアたちは勝利を得ることとなった。

人間的知恵では馬鹿げたこと、理論的ではない、わからないが、主に命じられた時に、そのまま行う、そのまま祈る時に、主が結果をもたらされる。全ての目が、主の栄光を見ることになる。それが靴を脱ぐということである。

どんなに暗闇でも、主がそこにおられる。そうして、その主の恵みはとこしえまでである。

イスラエルとハマス、またイランが戦っている。しかしそこにも主がおられる。その主に目を向け、どんな馬鹿げたことでも、イスラエルをとりまくすべてのことをとりなしていこうと思う。

主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。主の恵みはとこしえまで。(詩篇136:1)

石堂ゆみ

ジャーナリスト、元イスラエル政府公認記者、イスラエル政府公認ガイド、日本人初のヤド・ヴァシェム公式日本語ガイドとして活動しています。イスラエルと関わって30年。イスラエルのニュースを追いかけて20年。学校・企業・教会などで講演活動もしています。