新説:死海写本がクムランで発見された理由 2021.10.1

クムラン第4洞窟 wikipedia
死海写本
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死海写本とは、第二神殿時代後期(イエス時代・日本では弥生時代)にヘブライ語聖書や宗教的文書を写本した巻物で、羊皮紙やパピルスなどに書かれている古文書である。これらは、昔からの書物を代々写本してきたもので、死海周辺から発見されたことから死海写本と呼ばれる。

これまでに11の洞窟から約2万5000の紙片から1000の聖典が発見されている。これらの中には、世界最古の聖書も含まれているが、その聖書と、2000年以上経過した現代の聖書の内容がほぼ同じであることから歴史的にも貴重な資料んである。イスラエルの国宝である。

www.deadseascrolls.org.il/

現在、クムランの洞窟と死海の間には、当時ユダヤ教の中でも特に厳格なエッセネ派で修行中の男性たちが住んでいた場所とされる遺跡が残されている。死海写本は、そこで写本されていたとみられていた。しかし、そこに寝室など住居跡がないため、クムランで写本したあと、男性たちは夜になると、周辺の洞窟に言って寝ていたと見られていた。

やがてローマ帝国がイスラエル人の反乱を抑えようと攻めてくると、エッセネ派たちは、写本を破壊されてはならないと、周辺洞窟に隠し、そのまま、1947年に至るまで発見されなかったというのが定説であった。

しかし、ベングリオン大学のダニエル・ベインスタブ博士は、19世紀に発見された、エジプト、カイロのベン・エズラ・シナゴーグのゲニザ(古くなった文書を集めた場所)の一部であったダマスカス文書から、なぜ死海写本がクムランにあったのかが明らかになったと発表した。

それによると、死海写本は、全国にいたエッセネ派が、写本を年に一回クムランに持ち寄るいベンドがあったと考えられる。

クムランの遺跡には、大きなキッチンがあることと、南部には広大な平野があることから、多くの巡礼者が巻物とともにやってきて、ともに食事していたのではないかとも見られている。敷地内に、かなり多数のミクベ(聖めのプール)が多数あることにも説明がいく。

年に一回、大きなイベントが行われていたのだろう。クムランに住んでいた数十人が、必死で多くの巡礼のホストを務めていたと思われる。

ダマスカス文書は、紀元後10世紀のものではあるが、それ以前のことを忠実に写本してきたものなので、当時の様子を推測することは可能である。ダマスカス文書と呼ばれているのは、文書の中にダマスカスという文字が多数あったからだという。ベインスタブ博士は、これまで、この事実に気がつかなかったと語っている。

www.timesofisrael.com/1000-year-old-document-may-reveal-why-dead-sea-scrolls-were-stashed-in-qumran/

石堂ゆみ

ジャーナリスト、元イスラエル政府公認記者、イスラエル政府公認ガイド、日本人初のヤド・ヴァシェム公式日本語ガイドとして活動しています。イスラエルと関わって30年。イスラエルのニュースを追いかけて20年。学校・企業・教会などで講演活動もしています。