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アッシリアがラキシュ攻撃に使ったスロープから
イスラエル中央、エルサレム南西45キロ地点、ベイト・シェメシュとべエル・シェバの間に、テル(聖書考古学遺跡丘)ラキシュがある。
この遺跡の発掘は1930年代から始まり、今も続けられている。
小高いテル(丘)状で、青銅器時代から、ペルシャ時代まで、時代ごとに遺跡が層をなして発見されている。
特に有名なのが、城門や城壁のある町としての遺跡、LMLKと呼ばれる王の印章。また、アッシリア、バビロンによる攻防戦の遺跡である。これまでの発掘で、多くの火打ち石や槍の頭部など、戦いの遺跡が多く見つかっている。
今月、701BCにアッシリアが、どのようにラキシュを攻め取ったのかを説明する論文が公開された。発掘チームは、ヘブライ大学のヨセフ・ガーフィンケル教授(写真)のチームである。
ラキシュへの入り口は丘の上にそびえ立つところにあり、容易には入れない。そこでアッシリア軍は、入り口につながる人工の坂道をつくって、軍が突入できるようにした。
ラキシュには、この坂道が、2700年も前(日本では縄文時代後期)であるにもかかわらず、その40-50%が残されている。この急場しのぎのスロープを使って、アッシリア軍は、城壁に囲まれた都市ラキシュに突入したのである。
今回、ガーフィンケル教授が発表したのは、この坂道をアッシリア軍がどのように作り上げたかということである。
論文によると、アッシリア軍は、多くの人間を使って石を積み上げて楔形スロープ(80メートル)にしたとみられる。ちょうとマサダの遺跡(ローマ時代)に似ているものである。
スロープの大きさからして、一つ6.5キロはあるとみられる石300万個が必要と推測される。これらを運ぶのは不可能なので、おそらく人間が列を作り、石をパスしていく方法がとられた。
こうして1日24時間、12時間シフトで16万個を1000人が移動させ、数ヶ月かかるとおもわれるところ、わずか25日でこのスロープを完成させた。アッシリア軍の強大さを表している。
完成に近づくころには、ラキシュ住民が石をなげつけるなどの防衛に出たため、アッシリア軍は、L字型の盾を使用していたとみられる。
最終的には石の上に、城壁を破壊する1トンにも及ぶとみられる巨大な兵器をすえる梁が作られ、突入に使われた。この武器が倒れないようにしたとみられる鉄の鎖もみつかっている。
www.jpost.com/archaeology/biblical-warfare-how-did-the-assyrians-conquer-judean-lachish-684440
以下は、この当時の戦いの様子と、ロンドンの大英博物館に保存されているアッシリアの遺跡を説明したビデオ(ダビデの町より)
聖書に書かれたアッシリアは実在したのであり、聖書に書かれていることは、実際におこった歴史であるということである。
ラキシュのストーリー:聖書と考古学の一致
ラキシュが聖書に最初に登場するのは、ヨシュア記10章。ヨシュアとイスラエル人がヨルダン川を渡って約束の地に入ったところで対峙したエモリ人の5人の町(エルサレム、ヘブロン、ヤルムテ、ラキシュ、エグロン)の一つとして登場したと書かれている。(ヨシュア10:5)
その後、ヨシュアは、ラキシュを含むこの5つの町を攻略したと聖書は記録している。
考古学によると、ラキシュは、石器時代、青銅器時代(3000―2200BC)から存在しており、その後、地域をエジプトの支配していた紀元前1300-1200年に繁栄していたが、その後破滅し、突然消滅している。ちょうどヨシュアたちが来たころなので、聖書が言うように、ラキシュが、本当にヨシュアたちに破壊された可能性がある。
ラキシュは、その後、ダビデ、ソロモンの時代にも都市として栄え、イスラエル王国が分裂すると、南のユダ王国の都市となった。
次に登場するのは、BC767。当時のユダ王国のアマツヤ王は、たかぶってイスラエルのヨアシュ王に戦いをしかけた。しかし、逆にベイト・シェメシュで打ち負かされ、首都エルサレムの神殿から財宝と人質を取られてしまう。この時、城壁は400キュピト(176メートルで大部分)にわたって破壊され、無防備とされた。
アマツヤはその後も15年以上、ユダの王であったが、最終的にはエルサレム市民が叛逆し、アマツヤはラキシュに逃亡。そこで殺された。(第二歴代誌25)
その後、アッシリア帝国が起こり、732BC、北のイスラエル王国を破滅させてしまう。生き残ったユダ王国のこの時代の王はヒゼキヤである。ヒゼキヤは民を主に立ち返らせ、リバイバルを起こした王である。
しかしその後、722BCアッシリアが、じわじわとユダの都市を破壊しながらエルサレムに近づいてきた。このとき、ヒゼキヤ王は、エルサレム城壁の外にあったギホンの泉を、城壁内にリルートしている。この水路は実在しており、ヒゼキヤのトンネルと呼ばれる観光スポットになっている。エルサレムにいくと、だれもが通ることが可能である。
その約20年後の701BC、アッシリアのセナクリブ王が、ユダ王国に攻め入り、ラキシュを含む46都市を制圧(アッシリアの粘度板書に記録)し、エルサレムの周囲に陣を敷いた。
聖書によると、アッシリアがエルサレムを包囲していたころ、セナクリブ王自身は、ラキシュ(エルサレム以外では、ユダの最後の主要都市)を攻めていたと記されている。(第二歴代誌32:9)セナクリブは、ラキシュを攻めながら、エルサレムのヒゼキヤ王たちに降伏するよう、脅迫したのであった。
エルサレムは文字通り、包囲されて絶体絶命状態に置かれたということである。この状況の中で、ヒゼキヤ王は神によりたのみ、その預言者イザヤに相談。アッシリア軍18万5000人は、主の使いによって撃退されることになる。(第二歴代誌32:21-22)(イザヤ書36-37)
これ以後、エルサレムだけは守られているという見方が広がり、多くの難民たちがエルサレムに押し寄せている。その様子も、エルサレムの遺跡に残されている。ラキシュはその後、ヨシヤ王(649-609BC)が再建するまで、破壊されたまま残されたのであった。
その後、再び588-586年BCにやってきたバビロンとの激しい戦闘に直面することになる。特にこの時に、戦闘にあたっていた司令官がエルサレムに宛てた手紙が発掘されたことで有名である。