クリスマスの朝、以下のFBの投稿が目についた。エルサレムのキング・オブ・キングスのクリスチャンたちが、ベツレヘムを見下ろすところで、クリスマスイブに賛美を捧げている様子である。
www.facebook.com/share/v/1CF8XgwevT/?mibextid=wwXIfr
私は1989年か90年に、この教会の牧師ウェイン・ヒルスデン牧師からバプテスマを受けた。もう30年以上前のことだが、そのころのことを思い出して、涙が出た。
バプテスマとは、水に全身入ってから、出て来ることで、古い自分は終わり、新しい自分に生まれ変わった、イエスとも歩む新しい歩み、新しい人生が始まることを自他共に、認める儀式である。
私がウエイン牧師からバプテスマを受けたのは、ヨルダン川の支流で、小さなプール状になっているところだった。
バプテスマでは、まず、イエス・キリストが、私のこれまでの罪を赦すために、十字架にかかって死んでくれたことで、これまでの失敗と罪に溢れた自分のツケ、またこれまでの自分一人で歩んできた人生も全部、赦された、終了したということを告白する。
続いて、イエス・キリストが、確かに十字架刑で死んだが、その3日後によみがえって、死に勝利したという事実を信じることで、自分もまた、神の前に、永遠とされる新しい命への歩みが始まることを宣言するということである。
当時は、まだまだイエスのことはわかっていなかったと思うが、バプテスマを受けて、自ら出てきた時、自分はもう一人ではないという思いがあったことを覚えている。
以来、40年近く、イエスさまが常に共にいて、苦難も喜びも共にして、また様々な相談にものってくれ、行くべき道へと導き続けてくださったことを実感せざるを得ない。
このクリスマス、母教会でのスキットで、このイエスのしたことは、ちょうど、刑務所に入ろうとする者の保釈金を払って助けてくれた上、その後の導きと、すべてのことの責任を負う責任者になってくれたとの表現がなされていた。まさに、これである。
イエスさまは、私たちの保釈金を払っただけでなく、まだ失敗や犯罪に陥るかもしれない弱さも知った上で、その責任を全て負うことで、引き取り手になってくださったということである。これを救いとクリスチャンはいうのである。
これは、ほとんどの宗教が言う、良い人になる、良い行いを積む、修行する、信仰深い人になるといったこと、まして金を払うなどは、まったくもって、いっさい条件にならない。
条件はただ一つ。自分は自分を救うことができない者であり、主の助けが必要であることを認めるだけなのである。
今、年を重ねるにつけ、このまったくの恵である救いにあらゆる答えを見て、驚嘆している。主イエスが、私の人生に来てくださったこと。これは、これから直面するかもしれない、あらゆる問題すべてにおいて、まとにあたった解決策であると実感させられている。
このクリスマス。イエスが地上にきてくださっただけでなく、自分の人生に来てくださったことに驚くばかりの恵を感じている。メリークリスマス。イエスさま、私の人生に来てくださって、本当にありがとう!
ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。(イザヤ9:6)
わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。
見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。
勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。黙示録3:19-22
