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ガザ北部でイスラエル兵3人死亡:元IDF参謀総長家族3人目
11月16日(土)と17日(日)のベイトラヒヤでの銃撃戦の中で、イスラエル軍兵士3人が死亡した。死亡したのは以下の3人。
イダン・ケイナン第一軍曹(21)、ヨゲブ・パジィ大尉(22)、ノアム・エイタン軍曹(22)
パジィ大尉(写真中央)は、元IDF参謀総長のガディ・アイゼンコット氏の甥にあたる。
アイセンコット氏は、昨年12月に息子のガル・メイール・アイゼンコット軍曹(25)を失い、続いてその翌日、甥のオマール・コーヘン・アイゼンコット軍曹(19)を失っていた。
ヨゲヴ・パジィ大尉の氏は、ガディ・アイゼンコット氏にとって、家族親族3人目の戦死者ということになる。
パジィ大尉は、軍人で小隊長だった。葬儀において、パジィ大尉の妹は、パジィ大尉が祖母に書いた手紙を紹介した。
「もし天の父なる神が、国民のために死ぬよう導かれたとしたら、それは世界にとって、最大の益になるということです。危険があって、何があってもおかしくないということはわかっていますが、私の心は平安です。
なによりも、これは私自身が選んだ道だということ。私は国の男性は皆、この道をいくべきだと考えています」
www.timesofisrael.com/reservist-killed-in-northern-gaza-strip-hostage-holders-said-incommunicado/
石のひとりごと:残された人々へ
イスラエル人たちは、天地創造の神の主権ということを、痛いほどに思い知らされている。それが結局のところ、最善なのだということも、である。
そのため、この兵士が書いているように、国のために死ぬことも神である主のみこころならば、受け入れるという心構えになる。残された人々にも、いつまでも喪に服さず、うらみにも思わず、悲しみに押しつぶされずに歩んでいってほしいという思いになっている。
レバノンで14日(木)に戦死したイヴリ・ディックステイン中尉(21)は、結婚してまだ1年目だった。戦死した週末は、まさか戦死するとわかっていたわけではないが、安息日をまたいだ任務で、家に帰れないことがわかっていたので、妻のミリアムさんに花を贈るよう手配し、手紙を添えていた。
イヴリさんからの花たばと手紙は、15日(金)、イヴリさんの葬儀が終わって数時間後の安息日入りの前に、ミリアムさんに届いた。
添えられていた手紙には、「私の愛する妻へ。遠い北の戦場から書いています。遠い北から書くのはこれが最後になればいいなと思います。
でも今はまだここにいて、国民のために、意味ある働きをしています。どうか、いつも笑顔を絶やさず、顔を高く上げていてください。世界の中で何よりも君を愛しています。チョコレートと花で自分を甘やかしてね。変わらぬ愛をもって。」
最近、近所で明るく地域の働きを担ってくださっていた男性が、地域の人々との宴会の日、食事を楽しみ、皆と風呂に入っている最中に、突然死した。
今朝まで、いやさっきまでいたその人がもういないということを、私たちでもまだピンときていない。家族、特に妻である女性はどう受け止めているのだろうか。あまりにも急すぎるのである。
思うが、この世に生きている時間というのは、神が与えてくださった時間なのであり、それがいつ終わるのかは、だれにもわからない。
愛する家族や友人たちは、その中で神が与えられた、大切な存在であり、彼らとともに過ごせる時間は、一瞬一瞬、非常に貴重だということである。
それぞれの終わりを定めているのは、聖書によると、神である主と書かれている。ユダヤ人はその葬儀において、「主は与え、主はとられる」と言うことが多い。
では、主は、意地悪な、恐ろしい方なのかといえば、そうではなく、聖書には良いお方であると書かれている。
そのため、この神を、自分の神、主と呼ぶ、ユダヤ人とクリスチャンは、この神のなさることが、今は全部わからなくても、いずれは、最善だったというところに達することができるのである。
*クリスチャンは、この神、主が、イエスとなって、私のいたらなさ、失敗、罪の罰を身代わりに負い、解決してくれたので、神との関係を回復できると信じている。それこそが、この神が良いお方であり、私自身も愛されている貴重な存在であるとの確信になっている。
私たちの周りにいる家族、友人、また家や車、物にいたるまで、すべてが、私たちの人生の中に与えられたもの。確かに良いことばかりではない。しかし、それでも、1日1日、話たちたちの周りにいる一人一人は貴重な存在、貴重な時間である。
それとともに、自分に与えられた人生、その役割を果たしていくことが、私たちなのである。
見よ。私がよいと見たこと、好ましいことは、神がその人に許されるいのちの日数の間、日の下で骨折るすべての労苦のうちに、しあわせを見つけて、食べたり飲んだりすることだ。これが人の受ける分なのだ。
実に神はすべての人間に富と財産を与え、これを楽しむことを許し、自分の受ける分を受け、自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。こういう人は、自分の生涯のことをくよくよ思わない。神が彼の心を喜びで満たされるからだ。(伝道の書5:18-20)