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ガザ北部から南部への避難者たちがまた移動
10月10日(金)正午に停戦が発動すると、その数時間後には、すでにガザ南部へ避難していた市民たちの大群衆が、ガザ北部に向かって戻っていく様子が伝えられている。
北部から南部へ避難したのは、最近になってからである。一人のパレスチナ人は、家族共に北部から南部へ避難するのに、4500シェケル(約20万円)かかった。戻るのにまた20万円出せというのかと悲壮な様相で語っている。
南部へ避難したが、いくところがなかったので、北へ帰るという人もいる。
過去にも停戦は何度かあったが、その度に崩壊したので、今回の停戦でも、喜びはあまりない様子である。
新しく設立されたラファの人道地帯に向かった人もいる。ここから国外へ出る人、ガザに戻ってくる人が予想されている。しかし、出入りについては、まだイスラエルとエジプト、EUとの調整が必要とのこと。
なお、人道支援物資トラックは、1日400〜600台で開始されている。必要に応じて、インフラ修理の機器の搬入も予定されている。
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ハマスはガザから出るか?1982年のPLOとの比較からの警告も
今回、もしかしたら、ハマスはガザから出ていく可能性はある。しかし、そのことと、1982年に、PLOがレバノンから撤退して、チュニジアに移った時と類似していると警告する専門家もいる。(以下の記事)
PLOは、1970年にヨルダンから追放され、レバノンに移動。そこからイスラエルへの攻撃を続けた。そのため、イスラエルは、レバノンにいるPLOを攻撃。

1982年のレバノン戦争で、イスラエルが勝利した後、困ったレバノン政府は、PLOをチュニジアへと追放したのであった。
この時、イスラエルでは安堵と喜びが広がった。しかし、それから10年もたたないうちに、アラファト議長は、西岸地区に戻り、パレスチナ人の指導者となり、そこからイスラエルへのテロを連発した。
イスラエル(当時のラビン首相)は、1993年、このアラファ
ト議長と和平を結び、パレスチナ国家を目標とすることで、テロをやめさせようとした。この時に立ち上がったのが、パレスチナ自治政府である。
しかし、この後まもなく、パレスチナ人によるテロが悪化するのである。自治政府が立ち上がってから30年以上になるが、いまだに国にはなっていない。結局のところ、パレスチナ人は、イスラエルとの共存ではなく、イスラエルがいなくなることを望んでいるということなのである。
この経過を見ているはずの世界が、今またパレスチナ国家承認という、およそありえない動きに出ているのである。
ハマスは今、ガザから出ていくかもしれない。しかし、PLOがレバノンから出たのとは違い、出身地である、ガザを出ることになる。戻る執着はPLOの時より、格段深くなるだろう。
今のパレスチナ自治政府は、非常に弱体化しているので、ガザから出たハマスが、近い将来、西岸地区のハマスと合流し、西岸地区を支配して、イスラエルを攻撃してくるかもしれない。この状況は、イスラエルにとっては、今より悪い状況になると予想される。
またこの記事は、国際監視団体の働きがあまり期待できないという点も指摘している。レバノンでの停戦を監視していたUNIFILの元で、ヒズボラは膨大な軍事組織を立ち上げていたのである。
しかし、今はともかくも、人質を取り戻すことが肝要だとネタニヤフ首相は言っている。後のことは後の時代が考える、というところか。
石のひとりごと
ガザのパレスチナ人たちは、この2年、本当に落ち着く場所もなく、壮絶な瓦礫の中を移動続きだった。今また、北部に戻る様子は、悲惨としか言いようがない。
ガザには、エリート層がおり、ハマスに反発していると言われているが、これまでのところ、効果的な活動はできていなかった。
恐れからかもしれないが、ガザの人々は、ハマスを称賛し、10月7日のイスラエル襲撃の日は、スイーツを配りまくって祝いをしていたのである。
聖書には以下のように書いてある。ガザの人々の目が開かれて、霊肉すべてにおいて、ハマスから解放されるように祈る。
彼はまたのろうことを愛したので、それが自分に返ってきました。祝福することを喜ばなかったので、それは彼から遠く離れました。(詩篇109:17)
