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東京オリンピック開会式の黙祷
開閉式ディレクターのホロコースト揶揄騒ぎで、ユダヤ人たちの心に大きな不快感を与えた東京オリンピックだったが、開会式が始まると、イスラエルのベネット首相が東京オリンピックに謝意を表明することとなった。
開会式の初頭、コロナや戦争で多くの犠牲が出ていることを覚える際、特に、1972年のミュンヘンオリンピック中のテロで、虐殺されたイスラエル人11人に黙祷を捧げるという一幕が設けられていたのである。これは、事件発生以来49年、ようやくイスラエルの願いが、かなった瞬間であった。この直後、イスラエルのメディアはこれを速報で報じた。
For the first time since 1972, the 11 Israeli athletes murdered at the Munich Olympics are remembered at the Opening Ceremony of the Tokyo Games
Video: Channel 5 Sport pic.twitter.com/OOrlMCrXTD
— Plus61J Media (@Plus61J) July 23, 2021
I’d like to express my appreciation to #Japan 🇯🇵 for holding the #Tokyo2020 during these challenging times and to express my full confidence in their success.
Wishing the largest ever #Israeli 🇮🇱 team the best of luck in the #OlympicGames !@JPN_PMO @sugawitter @Tokyo2020— Naftali Bennett בנט (@naftalibennett) July 23, 2021
1972年のミュンヘンオリンピックでのテロで犠牲となったイスラエル人の家族たちは、長年IOCに、オリンピックのプログラムの中で、この事件を覚えて、犠牲者に敬意を払ってほしいと申し入れていた。しかし、IOCは、事件の次のオリンピックですらこれを覚えることをせず、それ以降も、家族の要望を取り入れて、犠牲者に敬意を払うことは一度もしていなかった。
2016年のリオ・オリンピックの時、ようやく今のバッハIOC会長が、この事件を覚える式典が行ったが、プログラムばオリンピックに組み込まれたものではなかった。しかし、この
時、バッハ会長は、次の東京オリンピックでは、これを式典の中で行うと約束していたという。
約束通り、23日、東京オリンピックの開会式で、ミュンヘンオリンピックでのテロ事件と、イスラエル人犠牲者たちのことが覚えられ、黙祷が捧げられた。
開会式には、犠牲者の家族、夫を失ったアンキー・スピッツァーさんと。イラーナ・ロマノさんが、招かれていた。(写真)
遺族は、「この黙祷が行われたことで、ようやくミュンヘンで殺された夫や息子、父たちの正義が達成できました。49年かかりました。今は涙が止まらないです。」と語った。
1972年ミュンヘン・オリンピックのテロ事件
1972年8月26日から9月11日までのミュンヘンオリンピックが開催された。その間の9月5日早朝、パレスチナ過激派組織PLO(パレスチナ解放機構・故アラファト議長)の“黒い9月(ブラック・セプテンバー)のメンバー8人が、機関銃や手榴弾を持って、イスラエル人選手とコーチら11人が宿泊していた選手村に忍び込んだ。
イスラエル人たちが抵抗したため2人を殺害(アメリカのユダヤ人選手とイスラエル人コーチ)。イスラエル人選手1人は脱出したが、9人が人質となり、そのまま選手村に立てこもった。黒い9月は、警察に、イスラエルの刑務所にいるパレスチナ人、日本赤軍の岡本公三、ドイツ赤軍など234人を釈放するよう、要求した。
この時、イスラエルのゴルダ・メイヤー首相は、黒い9月の要求を拒否し、イスラエルから特殊部隊を派遣したいと西ドイツ政府に申し出た。
しかし、西ドイツはこれを受け入れず、自前の警察で対処するとして、交渉を続けた。しかし、イスラエルがパレスチナ人収監者を釈放しないのであるから、話が進むはずがない。
パレスチナ人たちは、その後、エジプトのカイロへ脱出しようとして、空港まで行くヘリコプターを要求。午後10時半に空軍基地の空港についたが、西ドイツ警察の射撃手がタイミング悪く発泡したことで、空港での逮捕は失敗した。
パレスチナ人の一人が、人質が乗っているヘリコプターで自爆したため、ヘリコプターが爆発し、中で捉えられていたイスラエル人選手たちは、目隠しをされ、手足をしばられていたため、脱出できず、全員が死亡した。
この大きな犠牲は、西ドイツが、テロ組織と戦う十分な準備も訓練もないまま、事件を対処しようとしたことで多くの失敗があったと言われている。この事件以後、世界は、多数の国際テロ事件を経験していくことになり、オリンピックの警備も危機感を持って準備がされるようになった。
なお、この事件の後、ミュンヘンオリンピックは中止との意見も出たが、その後11人を覚える式典が行われたあと、34時間後に、再開されたのであった。当時の遺族の心の痛みは想像を絶する。
以下のサイトでは、この事件に関する1時間40分の映画も見ることができる。
黒い9月“ブラック・セプテンバー
PLO(パレスチナ解放機構)は、1964年にアラファト議長の元、イスラエル建国に反発するパレスチナ人の組織として結成された。
その後、1967年の六日戦争が発生。多くのパレスチナ人は、ヨルダンへ逃亡し、そのまま帰れなくなった。この戦争の後、ヨルダン王室は、イスラエルとの講和を目指すようになる。
このため、PLOは、ヨルダン国内でテロ活動を行い、王室の怒りを買うようになった。1970年、PLOとPFLPは、旅客機5機をハイジャックし、西ドイツ、スイス、イスラエルに、投獄されているパレスチナ人を釈放するよう要求した。
5機のうち1機は、イスラエルのエルアル航空で、犯人を機内で殺害して人質を取り戻したため、犯人の要求にな応じなかった。しかし、残りの3機は、ヨルダン国内に着陸、1機はエジプトのカイロに着陸した。最終的に、イスラエル意外の国は、パレスチナ・ゲリラたちを釈放したが、旅客機3機は全部爆破された。
この事件を受けて、ヨルダンのフセイン国王は、PLOの追放を決める。ヨルダンがPLOへの攻撃を開始したのは、上記ハイジャック事件の8日後の9月14日であった。しかし、この当時のPLOはシリアに支援されていたことから、ヨルダンとシリアの戦争の様相になり始めた。
このためアメリカが地中海に海軍を展開させて牽制し、エジプトが仲介して交渉を行った。結果、PLOは、ヨルダンを出てレバノンが受け入れることとなった。この一連のことが、黒い9月、ブラック・セプテンバーと呼ばれている。
その後、PLOは、レバノンからイスラエルを攻撃するようになる。このため、イスラエルも反撃するようになり、また、PLOが来たことでレバノンのイスラム教徒とキリスト教とのバランスが崩れ、内戦へ、また1982年のレバノン戦争へと発展していくこととなったのであった。
1972年のミュンヘンオリンピックでのテロ事件は、この一連の動きの中のできごとであったということである。
石のひとりごと:なんとすごい時代・1970年代
1970年代といえば、日本では、大阪で万博が行われた年。また、三島由紀夫が、極左と戦い、東大で割腹自殺した年である。ミュンヘンオリンピック事件が発生した1972年、日本ではあさま山荘事件が発生した。
このころは、PLOによるハイジャックが多発していた時代である。ネタニヤフ前首相の兄、ヨナタン・ネタニヤフ中佐が犠牲となったエンテベ空港奇襲事件(PLOによるハイジャック事件)も1976年であった。このころ、日本には、このPLOに協力する赤軍派がいたわけである。
今から思えば、世界だけでなく日本ですらも、なんと激しい時代であったことだろうかとつくづく思う。50年後の今とのあまりの違いに驚きしかない。しかし同時に、なんとなく、この爆発的なエネルギーが、誤解を招いてはいけないと思いつつも、カッコよくも見えてしまう。それがトシなのだろうか。。
しかし、イスラエルは、この時代も今も、ほとんどその方針や体制が変わっていないことに驚かされる。テロリストの要求は聞かないことと、人質を、無事に取り戻すことが最優先。そして、そのために、あらゆる作戦を遂行する非常に優秀な特殊部隊がいるということ。
ホロコーストで、ユダヤ人が生き延びるためには、戦わなければならない、負けはゆるされないことを、心底学んだ人々ならではのことである。ミュンヘンオリンピックの時も、おそらく、西ドイツは、イスラエルの特殊部隊に任せておくべきであったのだろう。
世界は今、反ユダヤ、反イスラエルの流れになりつつある。親パレスチナを叫ぶ人々は、この1970年代のことを覚えているのだろうか。今のパレスチナ自治政府の初代議長は、この1970年代の国際テロを指揮したPLOのアラファト議長であり、今も自治政府をしきっているのは、このPLOなのである。
それから50年もたっているので、もはや違う時代ではある。しかし、イスラエルがこのころの煮湯を忘れることはないだろう。それは憎しみではなく、警戒という意味でである。
70年代のハイジャックを知らない世代には、国際テロの恐ろしさを理解することは難しいかもしれない。しかし、今回、東京オリンピックで、この頃のことを覚える黙祷が捧げられた。少なくとも、今の各国指導者たちの世代が、この時代を思い出すことにつながったのではないだろうか。少しでもイスラエルの立場の理解につながればと思う。