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イランとアメリカの交渉3回目日程決まらず:睨み合いは続く
アメリカとイランの交渉は、3回目がいつ行われるかの情報は出ていない。しかし、両国のにらみあいは続いている。
2月6日(金)に、オマーンで2回の間接交渉が行われた翌7日(土)、アメリカのウィトコフ特使とクシュナー顧問が、アラビア海にいる空母アブラハム・リンカーン(原子力空母)を訪問。アメリカの軍事力を見せつけた形となった。
Today, Adm. Brad Cooper, Commander of U.S. Naval Forces Central Command, Jared Kushner, and I met with the brave sailors and Marines aboard the USS Abraham Lincoln, her strike group, and Carrier Air Wing 9 who are keeping us safe and upholding President Trump’s message of peace… pic.twitter.com/7Kc4XZuBY6
— Special Envoy Steve Witkoff (@SEPeaceMissions) February 7, 2026
ウィトコフ特使は、SNSへの投稿で、「空母とその周辺にいる軍は、我々の安全を守るためであり、トランプ大統領の言う、「力による平和」というメッセージを発するものだと述べた。

この翌日8日(日)、イランのアラグチ外相は、テヘランでの会議において、イランがウランの濃縮を停止する可能性を否定。アメリカの軍事的脅威に屈することはないと述べた。
アラグチ外相は、「戦争というリスクを負ってでもなお、我々がウラン濃縮を止めないのはなぜか。それは、だれも、我々に指図する権利があるものはないということなのだ」と語った。
また、「西側諸国は、我々が核兵器を保有することを恐れている。そのつもりはないのに。我々が核を持とうとするのは、大国にノーを言えるようになるためだ」とも語った。
今、イランが最も求めているのは、アメリカによる経済制裁の緩和だと言われている。しかし、この状況で、アメリカがそれに応じるとは考えにくい。
今後どうなるのかだが、中東問題に詳しいクリスチャンのジャーナリスト、ヨエル・ローゼンバーグ氏は、①このまま外交的な解決がある、②アメリカが、強力だが限局的なイラン政権を弱体化する攻撃をする、③大規模な攻撃を行う、という3つのシナリオがあると述べ、②になる可能性が最も高いと推測している。
なお、もし、アメリカが、イランを攻撃する場合、イスラエルは他人事ではない。ネタニヤフ首相は、明日10日(火)にワシントンに向かい、11日(水)にトランプ大統領と会談することになっている。13日には、イスラエルに戻るとのこと。
イスラエルが恐れていることは、アメリカが、核兵器だけで、イランとの問題を片付けてしまう可能性である。イスラエルとしては、イランの核問題のみならず、ミサイルと傀儡組織への支援も必ず交渉にあげてほしいということである。
石のひとりごと
アメリカとイランの対立について、イランは、究極的に尊厳を重視していると指摘する分析があった。
非イスラムの国アメリカの武力の前に屈するということは、イスラム教国イランには、あまりにも屈辱すぎるというのである。それを失うぐらいなら戦争になって、国民が死んでもよいということである。
日本も、武士の時代は、ちょっと似た部分があった。武士たちは尊厳を持って生き、常に外からどう見えるか、どう扱われるべきなのかに注意する。そこに間違いがあると責任ととって切腹する。また切腹させられる。人命よりも尊厳重視ということである。
一方、アメリカ、また特にイスラエルは、外からどう見られるといった尊厳より、実質的にそれは有益なのか否かと言う点を見ているように思う。特にイスラエルは、それで国民の命を守れるのかという点が、最大の判断基準になっている。
1947年、国連は、ユダヤ人の国イスラエルの領土を認めた。しかし、その領域の中に、ユダヤ教には最も重要なエルサレムは含まれていなかった。ユダヤ人の尊厳としては、受け入れ難いオファーである。
しかし、当時のベン・グリオン首相は、とにかく、今はユダヤ人の国を立ちあげて、ヨーロッパやアラブ諸国で、苦難に直面している同胞ユダヤ人を少しでも救うことを最優先し、この案を受け入れた。これにより、イスラエルが、建国したのである。エルサレムがイスラエルの首都になったのは、その約20年後の1967年だった。
しかし今、イランのアラグチ首相は、アメリカには屈せず、戦争を選ぶことも厭わないと言っている。国民が何人死んでも、イスラムの権威を守ることが優先だということである。
イランとアメリカ、今、考え方が全く違う者たちが、交渉にのぞんでいるということである。
