いつもと違う戦没者記念日(1年で戦死者766人・市民犠牲者834人)2024.5.15

GPO

1973年ヨムキプール戦争以来の戦死者数

イスラエルでは、独立記念日の前日、12日日没から戦没者記念日を覚えた。独立に関わる戦没者とテロ犠牲者は、1860年(エルサレム城壁の外にユダヤ人地区が初めて設立された年)からはじまり、76年後の今日に至るまでの間で2万5040人と発表された。

このうち766人(兵士603人、警察官68人、地元治安関係者39人、シンベト諜報関係者6人)は、昨年1年の間の戦没者で、この大部分は、ハマスやヒズボラとの戦闘で死亡した人々、また、66人は、戦場で負傷して治療中に死亡した人々である。昨年は、1973年のヨム・キプール戦争以来、最悪の年となった。

また、テロで死亡したイスラエルの民間人は834人。このうち、大部分にあたる822人(男性531人、女性291人)は10月7日のハマスによる犠牲者である。40人は18歳未満。68人は外国人だった。

当初人質になった人は252人で、今もまだ人質になっている人は128人(67人は兵士・警察官など・65人は民間人)。このうち、36人は、これまでに死亡が確認されている。その他の人々も全員が生きているとは限らないと推測されている。

www.timesofisrael.com/a-dark-year-760-soldiers-834-civilians-killed-since-last-memorial-day/

10月7日に国民を守れなかった責任は私にある:イスラエル軍ハレヴィ参謀総長

Credit: Naama Grynbaum Haaretz

この日は毎年、嘆きの壁で国家式典が行われる。ハレヴィ参謀総長は、10月7日のハマスの襲撃から国民を守れなかった責任は自分にあると述べ、毎日、そのことを考えない日はないと語った。

ヘルツォグ大統領は、イスラエルは常に平和を望んできた。しかし、攻撃れる以上、戦い続けるだろうと語った。両者ともに、遺族の痛みを共有する思いを表明した。翌日には、またクネセット(国会)でも式典が行われた。

www.timesofisrael.com/a-dark-year-760-soldiers-834-civilians-killed-since-last-memorial-day/

ディアスポラとイスラエルのユースをつなぐ働きをしているユダヤ機関のMasaは、今年「We are One」と題した戦没者記念のイベントを行った。痛みを共有し、共に立ちあがることが目的である。

ヘルツェルの丘軍事墓地での式典:ネタニヤフ首相を罵倒

翌日はヘルツェルの丘で記念式典が行われた。ネタニヤフ首相は、イスラエル軍関係者や大臣、外交官たち、戦没者家族などを前に、ガザでの戦闘に招致すること、人質を取り戻す覚悟を表明した。

しかし、出席していた家族の中には、イスラエルの旗に、7.10(10月7日)と赤で書き込んで表示した人や、ネタニヤフ首相に「あなたは私たちの子供たちを取り上げた!」と叫ぶ声もあった。この人々は、10月7日にハマスの侵入を許してしまうという失敗は、ネタニヤフ首相とその政府、軍に責任があると考えているのである。

また、戦死したことがわかっているのに、まだ遺体が戻されず、戦没者墓地に墓がない息子を持つ母親のドリス・ライバーさんは、どうやって息子を悼んだらいいのかわからないと語り、とにかく人質を全員、早くもどしてほしいと語った。

www.timesofisrael.com/you-took-my-children-netanyahu-heckled-as-memorial-day-marked-at-national-cemetery/

*世界が忘れ去った10月7日:深すぎる犠牲者家族の悲嘆

今年の戦没者記念日は、特に10月7日の犠牲者家族を覚える時となった。世界では、ガザのパレスチナ人の犠牲ばかりが前に出て、アメリカはじめ、だれも、最初に何があったのかを考える人がいないと感じるほどである。この状態を犠牲者家族がどう感じているのか、想像してもらいたい。

メディア関係者には、4人の犠牲者家族の声を聞く機会があった。

ジェニー・シヴィディアさんは、兄シュロモーさん(38)とその妻とともに、ミュージックフェスティバルに参加していて、ハマスの襲撃に遭った。兄は残虐に殺され、妹である自分はなんとか生き延びたが、両親は喜びと悲しみとの両極端にある。ただともかくも今ある家族を見て生きているともこと。

スデロットに在住していたオフィル・スウィサさんの兄ドレヴ・スウィサさん(34)一家は、当時、避難指示が出て、ともかくも夫婦と小さい子供2人をつれて車で逃げた。

ドレヴさんは、イスラエル軍拠点に近づいたところ、ハマスに占拠されており、至近距離で銃殺された。

妻のオダヤさん(33)は足を撃たれた。救急車1台があったので、そこに数十人が駆け寄ったという。それをハマスが襲撃し、大勢が固まった状態で焼き殺されていた。両親をこれほど残虐に目の前で殺され、生き残った2人の子供たちは、これからどうやって生きていけばいいのか。

証言は4人続いた。筆者はアメリカで病院チャプレンとしてグリーグケアに携わった時期があったが、このイスラエル人のあまりの話の連続で、耐え難く、そのトラウマはこちらにも波及してくるような気がした。これほどの苦難の中にあるイスラエル人に対し、世界の大学は非難の声をあげているのである。

イスラエルを非難している大学生たちが、支持しているものの実態は、世界ではすでに忘れられているということである。以下は、ハマスの襲撃を受けたキブツ・べエリでの戦没者記念日に様子。犠牲者家族たちは、

ガザ国境周辺キブツ・べエリでの戦没者記念

キブツ・べエリでは、今も時々ロケット弾のサイレンが鳴っている。ハマスに殺された住民は34人。ハマスが放火して焼け焦げた家もそのまま残っている。しかし、住民たちはすでに地域に戻っており、戦没者記念がここでも行われた。

住民のハイム・レビン氏は、「犠牲者家族をただ慰めることはできない。10月7日、ここは、焼け焦げて黒くなっている場所ばかりで、死の匂いに満ちていた。
ただ今、私たちが、ここにいるということが重要だ。同じ価値観を共有し、一致することが重要だ」と語っている。

兄を殺されたネマヘム・カルマンソンさんは、「私たちは共に泣き、共に未来をみている。私たちに選択の余地はない。前に進みたいなら、命を選ばなければならない。」と語る。また、キブツに戻ってきて、ハマスに襲撃されたシェルターを、またシェルターとして再建しなければならなかった。そんなことはあるべきではない。シェルターが不要になるようにしなければならないと訴えた。

しかし、現実として、昨夜もサイレンが鳴ったという。ハイム・レヴィンさんは、子供がいる親子連れはまだここに戻るべきではないと思うと語っている。

石堂ゆみ

ジャーナリスト、元イスラエル政府公認記者、イスラエル政府公認ガイド、日本人初のヤド・ヴァシェム公式日本語ガイドとして活動しています。イスラエルと関わって30年。イスラエルのニュースを追いかけて20年。学校・企業・教会などで講演活動もしています。