アウシュビッツ解放80年を迎えた今年1月27日、Burning Psalm(燃える詩篇)アウシュビッツ後にアドナイ(神・主)と対峙する、という本が出版された。
聖書の中にある詩篇(全150篇)をひとつひとつ、アウシュビッツの大虐殺が起こった後の視点でたどりながら、神に不満を投げかけるという作品である。
詩篇(全150編)は、主にダビデ王など聖書の人物が、神は悪いものから守る、愛の神だと賛美する詩が記されており、ユダヤ人たちはそのまま祈りの中で読み上げている。
しかし、アウシュビッツでは、1日に、多い日で、6000人が殺される日々が、2年近く続き、110万人のユダヤ人が命を奪われた。まさに殺人工場であった。この間、神は、沈黙し続け、彼らを助けなかったということである。
この本の作者は、ユダヤ人のメナヘム・ローゼンサフト氏。ジェノサイドとホロコーストの学者であり、コーネル大学とコロンビア大学の教授である。アメリカのホロコースト記念館に貢献し、ホロコーストの記憶のために働いている。
作品は、アウシュビッツとベルゲン・ベルゼン強制収容所を生き延びた人の息子の視点、またローゼンサフト氏自身も会ったことがない兄の視点で、詩篇を一編一編、読んでいくというものである。
ローゼンサフト氏の母は、ホロコーストの時代の強制収容所でのふるいわけの時、自分は生きて工場へ、夫と息子(5)はガス室の方へ引っ張って行かれる経験をしていた。その5歳の息子がローゼンサフト氏の兄のベンジャミンである。母は死ぬまでベンジャミンさんの写真を持っていたという。
ローゼンサフト氏は神に対し、「あなたはモーセのために、海の水を分けたが、アウシュビッツの火葬場の壁を打ちこわして、人々が逃げるようにはされなかった。」と語っている。また、詩篇を読むと、たとえば148篇は、まさに、アウシュビッツでは起こらなかったことだということを思い知らされるという。
この本の出版において、神とは和解したのかと聞かれると、ローゼンサフト氏は、これは和解という問題ではなく、ただ神に不満を訴えるものだと答えている。要するに神と和解したかどうか以前に、神は存在するということは否定しないということである。
こうした完全に理解不能な状況に直面した際に、私たちには2つの選択肢があるとローゼンサフト氏。すなわち、ニーチェのように、神はいないとして、神との関わりを断つこと。
もう一つは、神は存在し、聖書が言うとおり、奇跡を起こす神だと賛美しようとする選択だが、その場合、これほどの危機の時に、神は奇跡をもたらさなかったということに対峙しなければならないと語る。それがこの本なのである。
しかし、そのことが失われていった人々の記憶になるとローゼンサフト氏は語っている。
www.timesofisrael.com/a-new-book-of-psalms-doesnt-praise-god-but-confronts-him-over-the-holocaust/
石のひとりごと
ユダヤ人は選民と言われているが、全能の神の前に、人間の理解の限界とともに、主のはかりしれない大きさを、その大きすぎる痛みを持って示すことのために選ばれた民だと思う。
ユダヤ人が示していることは、聖書に示されている神は、単に私たちの理解の範囲での願いを、叶えてくれる、いわば人間がつくった宗教の神では、ぜったいにないということである。
しかし、あらゆる人の想像を超えて、ホロコーストという理解を超える大患難を通った後、わずか3年後に、国連も認めるユダヤ人の国イスラエルが独立したのである。
わからないことだらけだが、この神は本物であり、最終的には良い方であるとい信じる。この神とのつながりの中で、率直に神と論議しながら、生きているのがユダヤ人である。
だからこそ、わけのわからない中でもユダヤ人たちは、くじけずに前にすすめる、いや、進むしかないのかもしれない。それは今も続いていることである。