愛する家族を失った遺族たちの反応にみるユダヤ教の信仰 2022.8.20

友軍の銃撃で死亡したナタン・ファトウシ軍曹 スクリーンショット

最近の事故で欠けがえのない家族を失った遺族たち

ここしばらく、イスラエルでは、交通事故や友人の兵士による誤射で、愛する家族を失うという悲劇が連発して発生した。家族たちにとっては、怒りをどこへむけたらいいかもわからないような事態だが、怒りやうらみ、責任者追求の姿勢もみられない。

家族たちの反応の中に、流浪と迫害を超えてきたユダヤ人、その基盤であるユダヤ教の考え方が現れている。

1)エルサレムのバス事故で妻と2人の娘を失ったドブ・グロスタインさん

11日、エルサレムでエゲッドのバスが、運転手が外にいる間に動きだして制御不能となり、ショシャナ・グロスタインさん(30)と一緒にいた娘のハナさん(2)と、ハヤさん(7)が、バスの下敷きとなって死亡した。

遺族は、夫のドブさんと、4人の息子、1人の娘であった。ドブさん一家は、超正統派で、子供が多かったようである。翌日の葬儀でドブさんは次のように語った。

「私たちがお母さんと過ごした時間は終わった。サラとサヤとの時間も終わったのだ。それ以上必要なかったのだ。どうやってかわからないけれど、神様がきっと慰めてくれるだろう。今まで私たちを助けてくれた神は、これからも助けてくれるから。」

www.jpost.com/israel-news/article-714589

2)友軍の銃弾で従軍中の息子(20)を失った両親

15日、西岸地区ツルカレムで任務についていた、ナタン・フィトウシ軍曹(20)は、夜、祈りのために少し席を外して、戻ってきた時に、危険なパレスチナ人と間違われ、友人の兵士に射殺されてしまった。

その後の調べで、ナタンさんは、護衛に祈りに行ってくると言っていたという。しかし、暗闇から戻ってくるナタンさんを見て、危険なパレスチナ人と思った兵士Aは、まず空中に威嚇射撃を行なっていた。

しかし、ナタンさんは、その威嚇射撃が自分に向けたものとは思いもよらず、近くに危険なパレスチナ人がいると勘違いして、兵士Aを助けようとして、走り寄ったとみられる。それを見た兵士Aが、訓練通り、まず足を撃ち、その後致死にいたる部位に銃撃を行なっていた。

Aは、ナタンさんの親友で、安息日にはナタンさんの家族とも一緒に過ごすような関係にあった。今取り調べを受けているものの、精神的なストレスが大きく、弁護士はしばし、取り調べをやめるようにと言っている。

www.timesofisrael.com/lawyers-call-to-halt-probe-of-soldier-in-suspected-friendly-fire-killing/

ナタンさんの父親のヨセフさんは、「ナタンは、私たちは神にアリヤするよう選ばれているといつも言っていた。私たちは子供たちのためにフランスから移住した。移住は彼の人生にとって大きな変化だった。でも彼はイスラエルを愛していた。イスラエル軍に従軍して、戦闘部隊に所属することを望んだ。」と語る。

従軍が決まった時、両親はこれに反対せず、むしろ誇りに思うと言って、ナタンさんのために、パーティまで開いたとのこと。「彼はいつも他者を助けたいと思っていた。私たちは、神の側にいるから心配はしてなかった。ナタンは祈る時、いつもそばにだれもいないようにしていた。神と特別なつながりがあった。」と父ヨセフさんは語っている。

またヨセフさんは、ナタンさんが、イスラエルで紛争があるたびに、一致が必要だと言っていたことを思い出している。ナタンさんの両親の友人によると、夫妻は、息子を撃った兵士に何の怒りも感じていないといっているとのこと。むしろ撃ってしまった兵士Aの心配をしていると語っている。

石のひとりごと

妻と娘を失ったドブさんも、友人に殺されたナタンさんも、敬虔に神を信仰していた人々であった。そのような人々にもこうした、悲しすぎる悲劇が起こるのである。しかし、こうした際に、ユダヤ人から神への怒りを聞くことはあまりない。怒ってもしかたがないのと思っているのかもしれない。

怒っても、うらんでも、人や神に責任追求しても、亡き人は帰ってこないのである。かつてイスラエルで自爆テロが多発したころ、ある日、自分にとうとう悲劇が起こったユダヤ人が、「私の番が来た」と言って悲しみを受け止めようとしていたのを思い出す。そこに神への怒りは聞かなかった。

この神は天地を創造し、今も全てを支配する神である。いつも私たちが思う通りに動くとは限らない。怒ってもこの神はあってある神なのである。むしろ、その支配の中で、最終的には最善を考えているはずだと折り合いをつけていく。ユダヤ人の場合、恨みに支配されない場合が多いので、立ち上がりも早いように思う。

以前、アメリカのホスピスで、家族を失った人々のグリーフケアグループに出席していたとき、キリスト教、ユダヤ教といろいろな人が、それぞれ愛する夫や妻をなくして、そこから立ちあがろうと集まっていた。

一番、落ち込んでいて、心配されたのは、妻を失ったユダヤ人の高齢の男性だった。しかし、この男性は、一番先に立ち上がっていった。毎日、妻の墓に通い、詩篇の朗読をしたのだという。

ほむべきかな。日々、私たちのために、重荷をになわれる主。私たちの救いであられる神。神は私たちにとって救いの神。死を免れるのは、私の主、神による。(詩篇68:19-20)

これは、全世界を創造した神は、すべてのことをになわれる。私たちの深すぎる悲しみについては、私たちだけでなく、創造主である主もともに、になっているということである。男性もこの箇所に巡り合っただろうか。

生きている限り、多くの失敗や私たちの罪の結果での苦しみだけでなく、理解に苦しむ深い悲しみもあるものである。それを共に担ってくださる神がいるということである。それをわかりやすく現したのが、ユダヤ人としてこの世に来られた主ご自身のイエス・キリストであった。ユダヤ人自身は、これを受け入れていない人がほとんどだが、聖書は、最後の最後に、彼らも皆、その事実を知るようになると書かれている。

自分にこれほどの悲劇がふりかかったらどうだろうかと思うが、想像もつかない。しかし、その時にはホロコーストを通り、様々な悲劇を通ってなお立っているイスラエルの国と人々を思い出そうと思う。そうして、すべての重荷を共に担ってくださっているイエスを思い出そうと思う。

石堂ゆみ

ジャーナリスト、元イスラエル政府公認記者、イスラエル政府公認ガイド、日本人初のヤド・ヴァシェム公式日本語ガイドとして活動しています。イスラエルと関わって30年。イスラエルのニュースを追いかけて20年。学校・企業・教会などで講演活動もしています。