ホロコースト記念日2013 2013.4.9

エルサレムにあるホロコースト記念館、ヤド・バシェムでは今年も記念行事が7日日没から8日にかけて行われた。

7日の記念式典には、ホロコーストの生存者とその家族(1500人以上?)、ペレス統領、ネタニヤフ首相と閣僚に加えて、イスラエル支持を表明しているカナダの外務相が列席していた。

式典の様子は国営放送の3つのチャンネルで生中継された。生存者は皆80-90才代の高齢になっている。現在イスラエルにいる約20万人の生存者の多くはテレビのむこうか、もうテレビを見る気力もない人も多かっただろう。

生存者の数は、毎年着実に減っている。式典では6人の生存者が、600万人の犠牲者を記念して6つの火をともしたが、1人は式典の1週間前に死去していた。妻が代わりに灯火した。

8日の献花式には、中東歴訪中のケリー米国務長官が列席した。

<ネタニヤフ首相の国民へのメッセージ>

ネタニヤフ首相の国民に向けたメッセージは、気迫とすごみに満ちあふれていた。準備したものを読むのではなく、本気で言っていることが伝わってきた。

・・ユダヤ人はあらゆる世代において、絶滅の危機を通ってきた。今もイランはユダヤ人を菌やウイルスだといい、イスラエルは癌だから中東から消し去らなければならないと言っている。

ホロコーストにおいては、多くの者が危険に気がつくのが遅く、手遅れになってしまった。チーフラビのラウ氏によると、彼のいた収容所を解放に来たアメリカ連合軍の司令官が、後に涙をこぼしながら、「赦してほしい。来るのが遅すぎた」と言ったという。

ホロコーストで学んだことは、ユダヤ人は自衛しなければならないということ。イラン問題では国際社会の外交努力を認めるが、たとえ最高の友人であっても、他者の手に自分の運命をゆだねてはならないと言った。

その上で、もう二度と「遅すぎる」という状況にはしない。二度とホロコーストが起こることはないとの覚悟を語った。

少し気になったことがある。ネタニヤフ首相は、ホロコーストの闇から建国に至ったことを「私たちの勝利」「自由を勝ち取った誇り」と言い、今イスラエルが持つ強い軍隊を信頼していると言っていることである。

首相から国民へのメッセージなので、それで当たり前かも知れないが、神に栄光を帰す表現ではなかった。

<8日 犠牲者の名前を読み上げる>

8日は、ホロコーストの犠牲者をその家族が読み上げるという式典が行われた。多くの人々が、自分の父母、兄弟姉妹の名を読み上げ、亡くなった収容所の名のところに白い花を置いた。

高齢になった生存者をその子とイスラエル軍の軍服を着た孫との親子3代で支えている姿に感動した。祖母の読み上げる名前に、孫娘が泣いている姿もあった。

<証で綴られるホロコースト記念博物館>

ヤド・バシェムでは、ところどころでホロコーストを経験した人々が証を語るビデオが流されている。今日は、多くの若い兵士たち、ユダヤ人がそれらの証に聞き入り、涙を流す人も多かった。証はどんな写真よりも力がある。

今回、できるだけこれらの証の前にすわって話を聞いていたら、夕方になってしまった。当時の人々が、何の情報もないまま流されていく様子に、自分だったらどうしていただろうと考え続けた。

ここでは書ききれないが、今回特に記憶に残ったのは、ホロコースト末期に、ナチスドイツが、靴もろくにはいていない女性たちを、食べ物も与えず、雪の中、3ヶ月以上にわたって800キロ(1日25キロ)も歩かせていたこと。目的は途中で全員が死ぬことである。同じ女性として、人ごととは思えなかった。

ある記者はユダヤ人が虐殺されていることを知り、1940年、チャーチルや、ルーズベルトにまで会いに行ったという。その当時、欧米は惨事をすでに知っていた。しかし彼らにとって大事なのはドイツを降伏させることであって、ユダヤ人を救う事はまったく頭になかったと証した。

ホロコーストは600万人虐殺の一言ではない。殺すだけではない。家族をひきさき、いじめ、はすかしめ、拷問し、ありとあらゆる苦しみを与えたのがホロコーストである。そして、世界からの拒絶。無視。

あるガイドさんが「ニツォレイ・ショア(ホロコースト生存者)」は、「ソブレイ・ショア(ホロコーストに苦しむ人々)」だと言っていた。これらの生存者は目をみればすぐにわかる。彼らの目にはいまもまだ地獄を見ているような恐怖が見える。この人々のほとんどは、まだ救われていない・・・。

<希望の証>

希望の証もあった。このホロコーストのただ中で、あるラビは、皆で集まって礼拝したことを、昨日のことのように感動の表情で語った。聖書を読み、3-4時間も賛美したそうである。その後は、もはやドイツ人も、空腹も苦しみも吹き飛んだという。

また先の死の行進で亡くなった人のポケットからみつかった小さな詩篇の書。8×10センチくらい。どれほど足が重くなってもこれだけは持っていたのだろう。

国民がユダヤ人引き渡しを拒否したブルガリア。政府はナチスに引き渡そうとしたが、勇気ある議員と、ロシア正教の神父らが抗議に出た。ユダヤ人の引き渡しの日、市民らが一斉に出てきてユダヤ人を引き渡さなかった。政府はユダヤ人引き渡しをあきらめた。

この一部始終を経験したユダヤ人女性は、ブルガリア市民に深く感謝し、この日を死ぬまで忘れないだろうと証した。

またパルチザン(ヨーロッパでナチスと戦ったユダヤ人の若者の抵抗運動組織)の笑顔。ユダヤ人を救ったユダヤ人と異邦人の協力グループ。解放後の結婚、出産ブーム、イスラエルへの帰還。

*パレスチナ人のヤド・バシェム訪問

ホロコースト記念日の前に、イスラエル人とパレスチナ人が共同ですすめる組織によってパレスチナ人8人がヤド・バシェムを訪問した。1人はイスラエル軍との衝突で娘を亡くしていた。

8人は、初めて見るホロコーストの事実に愕然とし、「イスラエルの占領をホロコーストと比べる人がいるが、ここへ来て、それは全く違うということがよくわかった。」と語った。

パレスチナのテロ(パレスチナ人側では抵抗運動)は、かつてパルチザンが、自由と解放のために、ドイツ兵を殺害していたことにつながるが、ユダヤ人虐殺の度合いはイスラエルの”占領”とは比べるべきものではないほど大違いだということ。

しかしイスラエル南部では、記念式典をしている真っ最中にロケット弾の警報がなり、参列者は蜘蛛の子を散らしたように逃げた。人的物的被害はなかった。

<今も聖書時代>

記念館の外へ出たとき、町を歩く人全員が、ホロコーストの人々と重なって見えた。ホロコーストはなぜ必要だったのだろう。そう考えていると、もしかしたらバビロン捕囚の時もこのような惨劇だったのではないだろうかと思った。

この国は、今も聖書の時代なのである。ユダヤ人、そしてイスラエルは、神に愛されているとはいうものの、今も、この神の前に生きているのである。聖書に書かれた神は甘くない。この神に仕えることは甘いだけではない。

メノー牧師がよくいうことばを思い出した。「皆イエスがまだ子羊のイメージしかない。次来られる時はアリエル(ライオン)の厳しさで来られる。主への正しい恐れを持ちなさい。罪から離れ、主に聞き従いなさい。」

実際、ホロコーストの苦しみを思えば、少々の拒絶や苦しみは苦しみのうちには入らないと思わされた。

石堂ゆみ

ジャーナリスト、元イスラエル政府公認記者、イスラエル政府公認ガイド、日本人初のヤド・ヴァシェム公式日本語ガイドとして活動しています。イスラエルと関わって30年。イスラエルのニュースを追いかけて20年。学校・企業・教会などで講演活動もしています。

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